見出し画像

春の夜風にのせて

 春の夜。
 ジンチョウゲの香りがふわりとカーテンの膨らみの中から弾けるように生まれて、私は思わず頬の筋肉が緩む感じがした。同時に、あちこち強張っていたからだがゆっくりと伸びていく。私だけの部屋に入って間もなく、ようやく気持ちがゆるみほどけていく感覚を得た。

 ああ、夜だ。私だけの夜だ。

 そうは言っても、まだ寝かしつけは終わっていない。寝かしつけはいつまでやるものなのだろうかと悩むも、息子がそばにいて欲しいというのならまだなのだろうと思い返す。
 遠くない昔、もう育児本通りに子育てするのは苦しいから、やめた。見るべきは参考書でなく、我が子本人だと。

 それでも進級しはじめての6時間授業に加えて習い事があったので、もうすでに眠かったよう。寝室に入ったらうたた寝がはじまる。

 そこで、そばにいるだけ。頭を撫でて、背をトントンとしてやるだけで十分だったのかも知れなかった。でも、今夜は絶対絵本を読み聞かせると決めていた。誰のためでもない、自分のために。

 「〇〇さんが、すーちゃんのこと〜だって言ってたよ」
 「すーちゃんの息子くんがさ……」

 いわゆるスピーカーと呼ばれる方がいる。最初は気にもとめなかったのだけど、段々と聞いていて辛くなってきたのがはじまりだった。
 外で偶然会うことが憂鬱になり、話を聞くことが嫌になった。だって、いつも私の知らないどこかの誰がが私や息子をなにかしら話していたよ、というような話。なかには聞かなければ幸せだったような話もあったりして。……そこからもう、ダメだった。

 私は基本的に放っておいてほしいのだ。わかってくれるひとが少しいてくれれば十分。
 なのにそれを傍目から見たひとが「すーちゃんは友だちのいない寂しいひとだ」と言っていたらしい。それもあちこちで言っているとのこと(事実かはわからないけど)。

 基本的には気にしない。実際友人は多い方でもないし付き合いだって上手くないし。
 だからなおさら言わせておくのだけど、今日はどうしてもうまく気持ちの折り合いと落とし所が見つからなくて、ここにきた。

 あちこちで聞いたことを、なお当事者となる私に告げ口するひとの心理がわからない。わかりたくもない。だからとりあえず物理的にも心の距離も置いてやる。そんな気持ちでいっぱいなのは事実だ。
 でも書き手として題材の人間を知りたい私がひょこりと顔をもたげる。

 その心理、ちょっと覗いてみないか。いいもの書けるかも。

 良いか悪いか。
 それは私があまりその人に対して今完全に心を閉じているから考えられない。
 でも作家としての私は、これを機に“そう言う人間”を知ってみようよ、と言う。
 罰当たりかな。いやいや、相応に私も嫌な悲しい気持ちになっている。辛い気持ちになっている。息子だってなにか感じているかもしれないし、私のいないところで何か聞いている可能性だって、あるんだ。私は私の味方だ。息子の味方だ。
 不平等でいい。
 気になってるキャラクター、伏黒恵くん(呪術廻戦)もそう言ってるしOK OK。

 読み聞かせに開いた本は、アーノルドローベルの『ふたりはともだち(文化出版局)』。1年生の国語の教科書に掲載されていて、そこをきっかけに親子でのめり込んでいる本。…いや、もはや私がひとりで、の間違いかもしれない。

 今日は『なくしたボタン』を読んだ。
 がまくんがお気に入りのジャケットのボタンをなくしてしまい、かえるくんと一緒にあちこち探しまわる話。作中のがまくんの卑屈感、悲壮感が今日の私の気持ちに重なって、何だかいつもより深みを感じながら読み進める。

 この本はもう何度目かになるくらい読んでいるけど、こんなにがまくんの言葉をリアルに読み上げられたのは今日が初かもしれない。

 この時点で、息子はいびきをかきはじめた。よほど疲れていたのだろう。眠かったのだろう。これで寝かしつけは完了だ、と思った。頭を撫でてやる。柔らかい髪の毛がとても心地いい。

 それでも私は絵本を読み続けた。
 がまくんをかえるくんが励まして一緒にボタンを探してあげている。でもがまくんは卑屈になるばかり。こちらも気持ちが沈む。共感力がいつもより強い。声に出して読んでいる分なおさらなのかな。わからない。

 たぶん、私はこのアーノルドローベルの、かえるくんとがまくんの作風をわかっていて、この話に救われたかったのだ。
 最後、絶対にがまくんは幸せになる。嬉しくなる。ハッとする。そうして、がまくんはいつもかえるくんと微笑み合うのだ。

 今の自分を感情を振り払って、風に乗せて外へ逃してやり。大きく空いたスペースに新鮮な気持ちを取り込みたかったのかもしれない。
 声に出して読むことで、耳に目に、そして脳に直接語りかけたかったのかもなあ。

 窓の外へ運ばれていった私の鬱憤。代わりにと流れ込んでくる強い春の香り。リセットするというのはこう言う感覚なのだろうな、となんとなく確信する。

 

 

頂いたサポートは新しい感動を得ることに使わせていただき、こちらにまた書いていきたいと思います。