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【コラム】押しつけがましいインターネット vs. 押しつけがましい「推し」

無数の提案に満ちたインターネット

時折、自分の中身が「空っぽ」ではないかという不安に駆られることがある。私を構成するものが本当に私の意志に基づくものなのか自信がもてないのだ。今日、インターネットと無縁な生活を送ることは難しく、インターネットは、膨大なサジェストとレコメンドに満ちている。そんな中で、自分で選んだつもりでいることも、実のところは選ばされているのに過ぎないのではないか、と疑ってしまうのだ。

とりわけ、youtubeのアルゴリズムは、驚くべき正確さでもって私の周期的な傾向や機微を見抜き、その都度、的確な提案を私に持ち掛けてくる。半年に一度のペースで爬虫類の給餌動画がレコメンドされ、忘れたころにスポーツの感動を呼び起こし、眠れない夜にlo-fiの音楽が流れる。これらは私のお気に入りの動画ではあるが、本当に私の好きなものなのだろうか? 私は時々不安になる。

「推し」の押しつけがましさ

何かを好きであることの難しさは、「推し」という言葉の普及によるところもあると思う。たしかに「推し」という言葉と概念は、若者を中心に広く浸透している。「推し」をテーマとした小説が文学賞をとったことからみても、現代性をよく反映した言葉であることは疑いようもない事実だ。けれども、私は少し前まで、この言葉をうまく咀嚼して自分のものにすることができなかった。ただ単に好きであることと「推し」であることは何が違うのか。他人に自分が好きなものを表明する必要はあるのか。なんだか「推し」つけがましさのようなものを感じていたのだ。

大体、自分が好きなものを、一概に「推しなんでしょ?」と言われても腹が立つ。あなたの好きは「推し」かもしれないが、私の好きは「推し」ではない。どうして、なにかを好きであることや、そのあり方までも同調圧力のような言葉で足並みを揃えなければならないのか。ほかのあり方があってもいいじゃないか。そもそも、本来何かを好きであるということは、内に秘めたるからこそ尊い感情であるのではないか。それを恥ずかしげもなく明け透けに公言して憚らないのは奥ゆかしさに欠ける気がするのだ。

「推し」と押しつけがましいインターネット

しかし、時々、「推し」を持つ人のことを羨ましく思うことがある。どうしてそんなに自分が何かを好きであることに自信を持てるのだろうか、と。なぜそんなにも、おおっぴらで嫌味がなく、自分が好きなものに正直であることができるのだろうか、と。私はと言えば、自分が好きなものも本当に自分が好きなのかどうかさえ疑念を抱いているというのに。ニュースはyahooのトップページ、買うものはAmazonのおすすめと星4.5レビュー、観る動画はyoutubeのレコメンド、聴く音楽は音楽配信サービスのランキングとおすすめ――に依存している我々にまだどんな自由意思が残されているというのか、疑わしいというのに。

だが、「推し」を持つ人にとって、少なくとも「推し」だけは、自分の意志で選んだと言えるものなのだ。他の誰でもなく「推し」でなければならないと他の誰でもない自分が感じたものなのだ。現代に生きる我々は、それ以外のどんなことも、AIとインターネットの提案任せかもしれないが、尊い感情を抱き、愛情をささげる対象だけはまだ自分で決められると思っているのである。そう考えると、「推し」の押しつけがましさも許せてくる気がする。「推し」を持つことによって人は、インターネットやAIの上からの押しつけを、自分が良いと感じるがままの良さを肯定することで跳ね返そうとしているのかもしれない。「推し」は、現代に生きる人にとって、自分らしさの最後の砦なのかもしれない。



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