「チェスが解答である謎かけの場合、唯一の禁句は何だと思います?」

■ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』


控えめに言って素晴らしい一冊です。

私の語彙力と知識と感性でこの良さが伝えられるか不安なので、あまり多くを語れないけれど、今の気持ちをストレートに述べるなら「こういうものと出会うために私は本を読むんだな」という感動です。

平原が何かを語りかけようとする夕暮れのひとときがある。だが、それは決して語らない。いや、おそらく無限に語りつづけているのに、われわれが理解できないのだ。いや、理解はできるのだが、音楽とおなじでことばに移せないのだ……。
(「結末」)


『伝奇集』というタイトルそのままに、奇妙な物語ばかりが集められている。この物語たちをなんの構えもなく読み始めると、おそらく途中でつまづいてしまうと思う。なぜつまづくのか?実在の人物や名称とフィクションがかなり混沌と共存しているので、頭が混乱して追いつかなくなるから。言うは易く行うは難し。読んでみるとわかると思います(そもそも全体的に難解であるという覚悟も必要)。

現実と非現実の混在が強いものほど読みにくかった。はじめの三篇「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」「アル・ムターシムを求めて」「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・ノナール」が特に難しい。ここで挫折せず「円環の廃墟」までいくと突然読めるようになる。フィクション性が強く、安心して物語に身を委ねられるからだと思う。

私が特に好きだったのは上記の「円環の廃墟」の他に、「バベルの図書館」「八岐の園」「記憶の人、フネス」「刀の形」「裏切り者と英雄のテーマ」「死とコンパス」「隠れた奇跡」「南部」。


以前読んだときはミステリーに興味がなかったのでまったく覚えてなかったのだけど、いくつかの短編は推理小説的であると著者自ら書いている。実際この一冊の中に、エドガー・アラン・ポー、アガサ・クリスティ、シャーロック・ホームズ、オーギュスト・デュパンという名前がそれぞれ登場する。

もっとも推理小説らしいのは「死とコンパス」だけど、ポーの怪奇・幻想小説が推理小説でなくとも推理小説的であるように、上に挙げた作品はどれも推理小説的だと感じた。

読後感はポーのそれに近い。ふっと思い浮かんだのは「天邪鬼」。ボルヘスもとにかくオチのキレがすごくて、ポーよりさらに簡潔にして鮮やか、という感じ。

それと同時に描写がやたらと上手い。上手さが冗長さでないことを思い知らされる。きっとこの人は『ロング・グッドバイ』を20ページぐらいで書くんだろうなぁ。笑 もちろん冗長さも嫌いではないし、文学の価値は様々な場所に在るわけだけど。

・強烈なプロット。この一冊がプロットの宝箱のよう。
・類まれなる幻想性と哲学的価値観。
・描写が上手すぎる。

と、現状ではべた褒めしかできません。

「わけがわからないけどすごい物語」や「心の中に深い傷を刻むような力強い映像」が得られます。ただし、わけがわからないものをまるっと受け入れる覚悟が必要です。テーマが哲学的すぎて根底まではまず理解できない。「一体これはなんだったんだ?私は何を読んだんだ?」という読後感がモヤモヤや不快につながるような人にはお勧めできないかも。

ボルヘスは二十世紀の作家の多くがそうであるように、人間の知的な理解をはるかに超えた宇宙の意味を追求し続けてきた。完璧な不可知論者として、その種の人間の探求は虚しい業であると知りながらだが。 (解説)


冒頭の台詞は「八岐の園」から。この一篇が今回一番心に響いたかもしれない。

こういう素晴らしいものを摂取すると、生きていてよかった、触れ合えてよかった……と感動する。同時に、私も少しでも頑張ろう、感動を与えられる人間でいようと思う。文学や芸術の価値はまさにこういうところにある。

文学は生活必需品ではないかもしれない、なくても死なないかもしれない。でもその余分は余剰などではない。余分に私は支えられている。余暇に幸福を得ている。最近の生活で本当にそう実感しています。

ボルヘスが「世界」を本というモチーフに繰り返し描いたように、本という形――紙に印刷された文字列、それが綴じられた書籍――の先にこれほどまでに深い世界が展開していると思うと、感動を通り越してちょっと目眩がしてきます。笑


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