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アリストテレスの慎重な「倫理学講義」の価値|地から図を描くこと

■アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』


この本を読む上で、一つだけ念頭に置くべきと思うことがある。それは、ここに書かれた内容は、アリストテレスが(ギリシャの)若者に対して行った倫理学の講義である、ということだ。

「タイトルを読めばわかる」と思われるかもしれない。……がしかし、必要以上にそのことを意識したほうがいいと私は感じた。

つまり、これはアリストテレスといういち哲学者が世間一般に対して書いたものではないし、「私はこう思います!」と声高らかに伝えたいわけでもない。アリストテレスは「未来ある若者」に「この話をベースに、考えて、実践していってほしい」と伝えたかったのだ。だからこそ、訳者まえがきに書かれているように、

アリストテレスの言葉に足りないものを感じるとき、それは、われわれの経験によって不足する点を埋められるよう、そしてそうすることで言葉が経験になじみ、一つとなるよう、隙間がはじめから設けられているということなのです。 ー 16ページ

……もしこの前提を忘れて読み進めると「なんだかよくわからないな」という気持ちになるかもしれない。いや、私はなった。笑 全部読んで、解説も読んで、そうして引いた視点で見てはじめて「あ、なるほど」と理解できた気がしている。

今回はそこを重点的に説明したい。

注:わかりやすく「若者」と書いているが、若者といってもわれわれのイメージする大学生(20代前半)のような若さではなく、将来がある者たち、という程度の認識でいいと思う。本書に具体的には書かれていない。講義自体は学生に限らずギリシャの一般市民に対して開かれていたらしい。


断言しないのはなぜか

アリストテレス先生は、断言してくれない。

「幸福とはこういうものである」「幸福な状態を獲得するためにこうしたほうがいい」とハッキリ書いてくれない。だから読んでいるうちに、「うーん、この人はいったい何のために書いているんだ?何を伝えたかったんだ?」とモヤモヤしてきてしまう。

何かを伝えたいから書いてるんでしょ?
何かを書くって、そういうことでしょう?

普通の読書の感覚で読むとそうなってしまう。


たとえば以前紹介したショーペンハウアーの『幸福について』(以下)では、もっとバシバシと断言されていて、読んでいてわかりやすい。

例を挙げると、

いかに好意があっても人を矯正する意味の言動は、対談の際、いっさい慎むがよい。人の感情を害するのは容易だが、人を矯正するのは不可能とまではいかなくても、困難だからである。
─『幸福について』 298ページ

と書かれると、無茶苦茶わかりやすい。「たしかに!慎みます!」と思うか、「いや、そうとも限らないんじゃない?」と思うかは人それぞれだろう。けれど、向こうのスタンスが明確だからこちらも共感したりしなかったりできる。

それに対してアリストテレス先生は、

しかるべき事柄について、しかるべき相手に対して怒りを覚え、さらにはまたしかるべき仕方で、しかるべき時に、しかるべき時間のあいだ怒る人が、賞讃されるのである。 
ー 『ニコマコス倫理学・上』294ページ

「……えー!これじゃあどうしていいかわかんないよー!」と思ってしまう。笑

だけど、これでいいのだ。これでいい、ということを最後まで読んでやっと理解できた。最初の引用に書かれているように、アリストテレス先生は隙間を残しているから。

仮に、アリストテレス先生にインタビューして「あなたは幸福を実現するために具体的にどのようなことをしていますか?」と聞いたら、きっともっと明確な答えが出てくるだろう。アリストテレスという“個人として”何をしているか。と問われれば、具体的な実践がおそらくあるだろうから。

でも先生は「自分はこうしてるから、みんなもこうしようぜ!」とは決して言わなかった。そこにアリストテレスという人物の計り知れない思慮深さと慎重さ、そして後に続く若者への期待を感じた。自分が見出したものを、限りなく一般解のレベルにおいて分析し、体系化し、土台のみを提供すると決めたのではないだろうか、と私は思う。(あくまで勝手な解釈です。間違っているかもしれません。どこかに答えがあるわけではないので……)


思考するための土台の提供

とは言っても、ただ漠然とした講義を受けても何が言いたいかわからないし、そんな講義では2000年以上も読まれ続けているはずがない。

きっとアリストテレス先生の哲学の──この『ニコ倫』の肝は、その土台の提供の仕方がめっちゃ上手かったという部分にあるのではないだろうか。

私が最もそう感じたのは、「中間」を探ってゆけという発想である。

しかるべき時に、しかるべき事柄について、しかるべき人々との関係で、しかるべき目的のために、しかるべき仕方で感情を感じることであれば、それが中間にして最善なのである。そして、まさにこうしたことが、徳(アレテー)を特徴づける事柄である。 ー 132ページ

これだけを読んでもなんだかよくわからないけれど、まず、先生は幸福を最も希求すべき目的と設定し、その実現のために必要な(アレテー)をいくつかに分類して説明している。そして上記のように、徳を特徴づけるのは中間性にあるとする。

例えば「勇気」について。勇気という性質は中間に位置する。何と何の中間かというと、自信の超過である「向こう見ずな人」と、恐れの超過である「臆病な人」の中間が「勇気ある人」だ、と述べられる。

なるほど、たしかに……と一瞬思うが、よく考えると「じゃあ勇気ある人は具体的にどんなことをするのか?」という問いが浮かぶだろう。

ここで先生は、慎重だ。勇気ある人は戦場で死を恐れない、などと例を挙げているものの、ハッキリと定義はしない。定義は「中間である」ということのみだ。


中間は「図」で、過剰と不足は「地」

ここから先は私の解釈である。これは「図」と「地」の関係に近いのではないか、と思った。(注:図と地に関しては何かの学問から定義を引っ張ってきているわけではなく、個人的な用語の解釈をもとに説明に用います。)


例えば「テーブルの上に置かれたリンゴ」の絵を描くとしよう。

メインはリンゴであり背景はテーブルだ。言い換えると、私たちが主に描きたいのはリンゴであってテーブルではない。しかしリンゴだけ描くと宙に浮いているおかしな絵になってしまうから、背景のテーブルも描く。この場合、リンゴが「図」でテーブルが「地」になるというのが一般的な解釈としてよいだろう。

このように、普通の絵ならばリンゴとテーブルの両方を描く。けれど、例えばリンゴを白抜きにしてみたらどうだろうか?テーブルだけを丁寧に描いていくと、最終的にはリンゴのシルエットが白く浮かび上がる。すると説明されなくても「あ、ここにはリンゴがあるんだな」と認識できるだろう。

つまり、地(テーブル)だけを見ることによって、そこにはない図(リンゴ)を脳内で補完する能力が、私たち人間には備わっている。


さて、アリストテレス先生の徳の講義で、図にあたるのは「中間」で、地にあたるのは「過剰と不足(両方向への行き過ぎ)」といえる。

先生が本当に描きたいのは「中間」つまりリンゴだが、本書では「過剰と不足」つまりテーブルを説明していく。その情報をもとに私たちは考え、図=リンゴ=中間を探っていく。

なぜこんな回りくどいことをしたのかというと、これも私の想像だが、真実は常に一定あるいは絶対ではなく、言葉を用いた定義は危ういからだ。長い人生経験をもつアリストテレス先生が個人の考えとして「私はこう思う」と言うことはできるだろう、けれどそのような断言は時に誤解を招く。「あ、なるほど。徳ってこうなのね」と簡単に理解できるということはつまり、その言葉より先に発展する想像力を止めてしまうことになりかねない。

だから、先生は“隙間”をあえて残した。あえて地ばかりを描いた。未来ある若者に伝える講義だからこそ余計に。土台を与えるからあとは君たちが自分で考え、行動し、経験によって知りなさい、と言わんばかりに。

そのように私は解釈した。

おそらく、最初に素描して、そのつぎに詳細に論じるべきだからである。また、見事な素描からさらに先に進んでその細部を完成させることならだれにでもできるように思われるし、また時というものはこうした細部のよき発見者であり、よき協力者であると思われるからである。ー 61ページ

勝手な解釈かもしれないが、そうわかった瞬間に全てが腑に落ちて、先生のことが好きになっちゃった。笑

読みながら「ハッキリ言ってくれよ〜」とぶっちゃけ少し不満を抱いていたけれど、だからこの本は難しいと一般的に思われるのかもしれないけれど、先生の意図がこうかもしれないと閃いたとき、その思慮深さと謙虚さにむちゃくちゃ感動した。


もしこの本をこれから読む人がいたら、こういう意識で読んでみたらいいかな、と思って書いた。

ハッキリ言って、易しくはない。語彙が簡単なのに易しくないのはなぜかとちょっと不思議に思うけれど、以上説明したように「ズバリ言い当てない」という理由が一つと、もう一つはたぶん、文章がすべて「数式みたい」だから。慎重に書かれているので、何度も別パターンで言い換えたりと、ちょっとロボットが書いた文章みたいになっている。笑 途中で「これ、全部数式に変換できるんじゃないか?」と思った。

そのあたりは先生の性格なのかな……と思うけれど、まだわからない。下巻も読んで判断したいし、『薔薇の名前』に出てきた『詩学』もいずれ必ず読みたい。スタンスが違うと文章も違うかもしれない。


最後に、光文社古典新訳文庫の解説があったからこそ、私は上記のような解釈までようやく辿り着けたと思う。岩波文庫版を読んでいないので比較できないけれど、この解説だけで一冊分の本の価値があるから素直にお勧めしたい。引き続き哲学は光文社で読みたいと思わせてくれる。

われわれが幸福を選ぶのは、つねに幸福それ自体のためであって、けっしてほかの何かのためではないからである。 ー 54ページ

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