心に残る「さよなら」

■レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(結末ネタバレあり)

「アルコールは恋に似ている」と彼は言った。「最初のキスは魔法のようだ。二度目で心を通わせる。そして三度目は決まりごとになる。あとはただ相手の服を脱がせるだけだ」(P.39)


さて……何から書けばいいかなぁ。

まずはじめに、私は村上春樹による新訳を読んだ。これについて主に二つの点で良いと思ったので理由を書いておきます。

一つ目は、巻末の訳者解説にとても読み応えがあったこと。マーロウシリーズについて、とりわけ『ロング・グッドバイ』の稀有な出来栄えについて、チャンドラーについて、翻訳の裏話……。推理小説というよりむしろ文学全般に興味のある人に向けて、この解説はとても価値があると思う。

二つ目は、その解説の中で知ったことだが、清水俊二氏の旧訳(『長いお別れ』)では多くの部分が端折られていた、という事実。村上春樹訳は原作に忠実に、細かい部分も取りこぼしなく拾っているらしい。比較して読んでいないので物語としての読みやすさはどちらがいいかわからない。でも村上氏が言うように、チャンドラーの魅力は「なんてことない描写の上手さ」にあると感じたので、個人的には全て読めてよかった。

解説に挙げられていたほかにも、例えばこんな描写が秀逸だと感じた。

客は次々に宵闇の中に退出していった。人の声が遠のき、車のエンジンがかかり、別れの挨拶がゴムまりのようにそこらじゅうにはずんでいた。私はフレンチ・ウィンドウのところに行って、平石敷きのテラスへ出た。土地は傾斜して湖に向かっていた。湖は眠った猫のように身動きひとつしない。(P.285)

「村上春樹を読むと迷子になる」という声を聞いた。

「迷子になる」の言わんとするところはよくわかる。無駄な描写(や比喩)の割合が多く、その割に結論が出ないことを、愉快と感じるか不愉快と感じるかの差だろう。私は迷子になることが不愉快と思わないので、村上春樹の小説はほぼ全て読んでいる。そして彼がいかにチャンドラーから影響を受けているか、この一冊でよく理解した。

そういう意味で彼の翻訳でチャンドラーを読むのは、真のチャンドラーに近くていいのかもしれない。チャンドラーも同様に、無駄(文学的見地では無駄ではないが、筋に関係ない)といえる描写が多く、結論がはっきりしない。


前置きが長くなったけれど、良い作品だった。

推理小説またはミステリーというカテゴリーでこの小説を読んでみた。でも正直に言って推理小説とはまったく思えなかった。文学作品として価値があると聞いていたから、なるほどこういうことかぁ、と。

つい先日書いたアガサ・クリスティー『ナイルに死す』と比較すると、自分の中でしっくりきた。

アガサ・クリスティーは真っ当な推理小説を書いている。起承転結の「起」に重要な登場人物を全て並べ、「承」では推理の手がかりを読者に提示する。もちろん、だからといって解けるような謎ではないが、一応推理できる土俵に立たせてくれる。その点が非常にフェアだ。

一方でチャンドラーは、起承転結というきれいな筋道をトントンと進めるのではなく、A→B→C→D→E……と、連鎖反応のように物語を進める。重要な登場人物がCぐらいに出てきたり、結末の一つ手前の段階で「それは先に言ってよ」的な事実を提示したり、推理小説としてはおそらくアンフェアなことをする(推理小説に詳しくないので勝手に言ってますが)。

で、アガサの「ダブル・ミーニング」はこの点において意味があるのかもしれないと思った。「起承」でフェアに情報を提供するために、台詞に裏の意味を仕込んでおき、「結」でひっくり返して回収する。なんて美しいんだろう。

これまでほとんど純文学(モヤモヤ、ダラダラ、結末なし)ばかりを読んでいたので、この構造美に驚いた。ハマる気持ちがわかる。

とはいえ、チャンドラーの“アンフェア”な文学の中で迷子になるのも私は大好きだ。三人のドクターのくだりなんか最高だったなぁ。くどくどしいのに鬱陶しい文学性がなくて、シニカルで心地よい。

「警官が嫌われていない場所も世間にはあるんだよ、警部。しかしそういう場所では、あんたは警官になれない」(P.79)


解説にあるように、「マーロウ」というキャラクターはただの体を張る主人公ではなく、世界を眺める一つの視点になっている。それはチャンドラーが影響を受けたヘミングウェイらのスタイルを一歩進めたものだという。マーロウの「自我」の話は面白かった。

しかし難しい話は置いておいても、マーロウの「ありそうでない人間味」のバランスがいい。いやに反抗心むき出しで、金に執着せず、いきなり女に手を出し(ハードボイルドな人ってどうして貞操観念が弱いのかなぁといつも疑問 笑)、友情に厚い。

「ちょっと待ってください」と私は言った。「そんなキスじゃ傷は残らない。心配はいりません。それから私が心やさしい人間だなんて言わないでください。そんなことを言われるくらいなら、ごろつきにでもなった方がましだ」(P.238)


解説を強引にまとめると、テリー・レノックスという存在がマーロウのポテンシャルを思いきり引き出しているこの『ロング・グッドバイ』が、マーロウシリーズの中で最高傑作といえるらしい。でも気になるから『さよなら、愛しい人』を次は読んでみようと思う。

「私はロマンティックなんだよ、バーニー。夜中に誰かが泣く声が聞こえると、いったい何だろうと思って足を運んでみる。そんなことをしたって一文にもならない。……君ならそんなことはしないだろう。だから君は優秀な警官であり、私はしがない私立探偵なんだ」(P.438)


……そして、もとはといえばこの言葉の意味を知りたくて興味を持った一冊だった。でも結果として、まだちゃんと理解できていない。

「ギムレットには少し早すぎるね」と彼は言った。(P.586)


"To say goodbye ie to die a little."

さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ(フランス語の有名な言い回しであってチャンドラーオリジナルの言葉ではない、とのこと)。

この物語のように「さよなら」を言う機会って実は多くない。二度と会えない、二度と会わない……そんな別れは現実にあまりない。別れた恋人にだって会おうと思えばだいたい会える。

でも長い人生でたまには訪れるのかもしれない。死別ではない半永久的な別れ。

「君は私の多くの部分を買いとっていったんだよ、テリー。微笑みやら、肯きやら、洒落た手の振り方やら、あちこちの静かなバーで口にするひそやかなカクテルでね。それがいつまでも続けばよかったのにと思う。元気でやってくれ、アミーゴ。さよならは言いたくない。さよならは、まだ心が通っていたときにすでに口にした。それは哀しく、孤独で、さきのないさよならだった」(P.592)

今の君は別人だ、ということ?

マーロウの中でテリーは一度死んだ。その時マーロウは、哀しく、孤独で、さきのないさよならを受け止めてしまった。

もう二度と本当の「さよなら」は言えない…


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