夫婦、あるいは同僚

最近noteを書く中で、夫の登場頻度が上がっているように感じる。その理由を探ってみると、

  1. 夫以外の大人とほとんど接する機会がない

  2. 夫婦で「子育て」という仕事をしている

の二つかな、と思う。

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東京都が最近、「『育休』ではなく『育業』という言葉を使う」と発表したらしい。

東京都は、「育休」を「仕事を休む期間」ではなく「社会の宝である子供を育む期間」と考える社会へと転換するために募集していた育児休業の愛称を、「育業(いくぎょう)」とすることを発表した。

出典:Impress Watch

言われてみれば「育休」という言葉は「育児のために休みます、すみません」というニュアンスが強い。

実際に経験してみると、育児は「休み」よりは断然「仕事」に近かった。私は、夫と一つの仕事をしているような感覚で日々過ごしている。

今の日本では、多くの家庭で妻が育休(育業)を取得する、もしくは専業主婦になる。必然的に、妻が育児業務の主担当、夫が副担当、という感じになる。一つのプロジェクトを二人でこなしているような状態だ。

同じ住所で過ごす人、血はつながらないけれどまぁ相性はいいし一緒にいて楽しい人──という存在だったパートナーが、ある日を境に「同じ仕事をする同僚(あるいは上司と部下?)」になる。これは、なかなか大きな転換である。

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育児を始める何年も前から共に暮らしていたのに、同じ仕事をしてみると発見がたくさんあった。

例えば、夫が想像以上に潔癖症だった、ということ。もともと綺麗好きな人だとは認識していたが、ここまでとは気づかなかった。

以前は「私はリビングを掃除するから、あなたは風呂を掃除してね」といった取り決めだけを交わし、あとは自由だった。一緒に家事をしているようで実は個人プレイだった──とも言える。しかし、育児の中で行う掃除はダラダラとやる余裕がないものなので、「なんで風呂掃除に1時間もかかるの?」という話になったりする。

逆に言えば、私は夫に比べてかなり大雑把であり、潔癖の逆を行く人間だ。ということも明らかになった。子どもが触って舐めるものが多少不衛生でも「まぁ免疫つくし、死ぬわけじゃないし」と放置してしまう(……ことをおそらく夫は気にしている)。

まだまだある。

夫は、腰が重くなかなか物事を始められないが、いったん始めると超長続きする(時々やめ時がわからなくなる)タイプ。一方の私は、思いついたら居ても立っても居られずすぐに始めるが、飽きっぽいタイプ。

夫は、物事を長く続けるのが得意だが、改善するために新しいやり方を試すのが苦手なタイプ。私は、新しいやり方をどんどん思いついて試すので、同じ物事をコツコツ長く続けるのが苦手なタイプ。

夫は、細部の完成度にこだわるので、一つのものを完成させるのにすごく時間がかかる(ほぼ毎回予想した時間をオーバーする)が、しっかりと仕上げるタイプ。一方の私は、最初から8割程度を合格点と設定する&スケジュールを重視して動くので、あまり時間をかけずに完成させられるが、細部の詰めが甘くなりがちなタイプ。

夫は、人とのコミュニケーションを大事にするあまり、人の顔色にばかり意識が向いてしまう。私は、自分の思考で一人トリップしがちで、多くの場面で他人の顔や話を全く覚えていない。

などなど。

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恋人や夫婦として一緒に過ごす時間では見えてこない性質の違いが、こんなにもたくさんあるとは思わなかった。どれも片鱗は見えていたものの、ここまであからさまな差を感じる機会はなかった。

先ほども書いたように、夫婦というのはあくまで他人であり、ドライな表現をすれば「ただの同居人」だったのかもしれない。

そこから「同僚」になってみると、今まではなんとも思わなかったこと(例:1時間の風呂掃除)にイラッとしたり、逆に自分の性格を反省する機会が生まれたりする。

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余談ですが。産後会った友人に「母親になってみてどう?」と聞かれたことがある。

自分が親あるいは母親になったという実感は、まったくない。何かしら変わったかもしれないが、少なくとも“母親感”はゼロだ。

ただ、今はどうしても子どものことばかり考えてしまう──というか、それ以外の要素の入り込む余地が、今の生活にはほとんどない。以前は「本を読み、感想をnoteに書く」というサイクルが私にとって生きるリズムでもあったのだけど、今はなかなか本が読めない。だから思考のネタも(夫の話ぐらいしか)ない。

楽しい日々だけども、正直、この状態はもどかしい。

今の自分は、母親というよりも「付き合いたての恋人にゾッコン」状態だと思っている。イメージは、付き合ってまだ3ヶ月。箸が転がっても好き!というかんじ(娘ですが)。

たぶん後から振り返って「あの頃は恋人(子ども)のことしか考えてなかったな」となるだろう。それもまた人生──かもしれないが、本を読んで妄想を頭の中で膨らませる時間は、今の生活に欠けている最後のピースのように感じられてきた。物理的な時間の不足をなんとか乗り越えて、一人の時間と頭の中の空間を無理やりにでも捻出したい。と考えている今日この頃。

そのためにも、夫婦で協力しなければ。

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