江戸川乱歩の語るデュパンとホームズ

■エドガー・アラン・ポー『ポオ小説全集 4』

一方は夜の夢、一方は昼の実務、デュパンとホームズの性格は、似たるが如くにしてはなはだしく異なっていた。両方共通するところは、朦々たるパイプの煙の中に思索する性癖くらいのものであろう。(P.430)


ポオ小説全集は全部で4巻あるのですが、『モルグ街の殺人』『マリー・ロジェの謎』が収録された3巻と、『黄金虫』『黒猫』が収録されたこの4巻が全盛期だろうと考え、先に読みました。

3巻もよかったけど4巻も盛り沢山の一冊。

・怪奇小説(『黒猫』ほか)
・推理小説(『盗まれた手紙』『「お前が犯人だ」』)
・暗号小説(『黄金虫』『暗号論』)
・江戸川乱歩によるポオ/デュパン論

これらが詰め込まれているので、非常に読み応えがある。


江戸川乱歩が、探偵小説の元祖・デュパンという人物と、その正統後継者(?)たるホームズについて比較しており、いかにポ―が探偵小説の確固とした原型を形作ってしまったかがわかります。シャーロキアンの方々にも興味深い内容かと。

ポオはまず天才探偵デュパンを創造し、これに配するに、その解説者、引立役として、無名の「私」なる人物をもってした。後年ドイルはこれを模してホームズとワトスンを造り出し、この引立役を「ワトスン役」と通称することになったが、「ワトスン」は天才探偵には欠くべからざる相手役であり、天才探偵を主人公とする作風においては、現在でも「ワトスン」を廃止することが出来ない状態である。ポオがその最初において、いかに抜きさしならぬ構成を確立していたかを知るべきであろう。(P.422)

というように「ホームズとワトスン」という揺るぎない構成はもちろんのこと、

●「出発の怪奇性」と「結末の意外性」というセット
●一見して複雑だが解きやすい謎=小説的犯罪(『モルグ街の殺人』)と、一見して簡単だが解き難い謎=現実の犯罪(『マリー・ロジェの謎』)
●「エリミネーション(可能性の排除)」により結末に辿り着くこと

等々、探偵小説(推理小説)の法則をこれでもかこれでもか、とポーは提示してしまったという。

実際私も他の推理小説を読んでいて、ポーが考えなかったような、まったく新しい推理の原則など存在しないのではないか?と思うときがある。デュパンの言葉と同じことを、他の探偵があれこれ言葉を変えて語っているだけのような気がするのだ。

ドイルはポオについてこう書いている。「エドガー・アラン・ポオは探偵小説の父であった。しかし、彼は探偵小説に関するあらゆる手法を案出してしまったので、あとに続くものは彼自身の創意をどこに見出したらよいのか、私にはその余地がほとんどないように思われる」(メリ・フィリップス『人としてのE. A. ポオ』による)しかし、ドイルはこの困難をよく克服して、彼自身の創意を生み出している。一方ではポオの模倣もしたが、一方ではポオの知らなかった手法をも編み出しているのである。(P.428)

と、ドイルが白旗を揚げるほど。

一読の価値ありです。


また、個人的には暗号が大好きなので『暗号論』も面白かった。

ポーが雑誌で読者に挑戦状を出し、送られてきたすべての暗号(ある条件のもと)を解読してみせた、という逸話。

送られてきたうちの一つ、「フェアじゃない暗号」をとりあげ、それがいかにフェアじゃないかを語っている。かの暗号はポー達を困らせるために生み出されたようなもので、実用性がない、と論破しており、なるほどなぁと納得させられた。暗号って本当に面白い。


純粋なフィクションのうち、いくつかは読みづらく、ななめ読みになってしまった。ポーの小説ではときどき感情移入……というか情景への没入ができないものがあるので、そこは割り切ることにしている。

最も面白かったのは『天邪鬼』。次第に展開が読めてくるが、それでもオチが素晴らしかった。短く、シンプルで、無駄のない構成。

この物語で思ったのだが、ポーは語り手が誰か/どういう状況かを曖昧にしてスタートして次第に明らかにする、という手法をよく使う。『天邪鬼』ではそれがよく生きている。

衝動は希望となり、希望は願望となり、願望はやがて抑え切れない切望となり、そしてその切望に(それは現に話し手自身にも深い悔恨と苦悩の種となり、結果の悪いこともみすみすわかっているのだが)、溺れてしまうのである。(P.191)

これだけ量を読むと、繰り返し出てくるテーマというか強迫観念が見えてくる。天邪鬼/生きたままの埋葬/悪魔的な天使/精神分裂/美しい風景……。

『不条理の天使』『ミイラとの論争』『タール博士とフェザー教授の療法』『跳び蛙』のように、純粋に不気味でワクワク(?)する物語が個人的には好み。

もっとも救いようがない『跳び蛙』の結末は、江戸川乱歩『踊る一寸法師』(以下に収録)に似た幻想性を感じて、あと引く情景だった。この『名作選』と『傑作選』、はこれまで読んだ小説の中で5本の指に入るぐらい、気に入ってます。

……と思って検索したら、なんと『踊る一寸法師』は『跳び蛙』に多大な影響を受けた、とWikipediaに。「似ている」という感覚って、意外と正確なのだなぁ。

『ランダーの別荘』に関しては、興味深く読んでいたのだけど、終わり方に「マジかよ!」とズッコケた。


思うに、文学には(いろいろな分け方があるけれど、一つの分け方として)大きく二種類あるのではないか。

自分の精神を差し出すものと、差し出さないもの。前者はポーやチャンドラー、後者はドイルやクリスティーやクイーンだと今のところ感じている。

前者の小説は、自分が見てきたもの、歩いてきた道のり、考えてきた思考――ざっくりまとめると自分の精神――と物語が呼応し合う感覚がある。うまく呼応した場合は喜びが大きく、呼応しない場合には楽しみづらい。双方向と言い換えてもいいかも。

対して後者は、自分の精神を差し出す必要がないため、精神が削られるような感覚はなく純粋な受け手として楽しめる。一方向。呼応した時の蝕まれるような喜びとは違う。

それは優劣の話ではなく、黒と白、赤と青のような、単なる性質だと思う。一般的には後者のほうが好まれる傾向にあるのは、エンターテインメントとして「疲れない」「楽しい」という単純な理由ではないか。

……というわけでポーの文学に呼応すると、少し疲れて、逆にポアロシリーズとか読みたくなるんです。面白かったけどしばらくはいいや、という気分です。笑


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