そして、失われなかった自分
年末になんとか時間を捻出し、美容院ついでに一人で外食をすることにした。適当な定食屋でいいかと思っていたが、せっかく代官山に来たのでと、奥まった喫茶店に入る。
立地のわりにメニューはそう高くなく、ゆったりとしたレイアウトに暗すぎず明るすぎない照明。noteを書くにはちょうどいい。
一年間頑張った自分へのご褒美だ。ハヤシライスに追加で和三盆メープルシロップのパンケーキも頼んでしまった。
娘が生まれてから10ヶ月が経った。
その間に私が彼女と物理的に離れていた時間は、合計して24時間余りにすぎない。
一人カフェが1回、数回の美容院、友人の結婚式、SNSで知り合った友人と初めて遊んだ日。一度だけ支援センターの一時保育を利用してみたが、3時間預けただけでは何もできなかった。
10ヶ月≒300日のうち、離れたのはたった1日分。300分の299は二人くっついて過ごしていたことになる。
・・・
それなのに、こうして一人で懐かしい街を歩くと、自分が母親であるという実感が急速に遠のく。娘の顔を思い浮かべても、どうにも自分の産んだ子という感じがしない。存在が遠い。
離れているから忘れるというわけでもない。私にとって彼女は言うなれば「授かりもの」のようで、コウノトリが運んできた可愛い可愛い赤ちゃんだ。胸が締め付けられるほど大切に感じているし、一生懸命育てているが、存在自体はどこか他人じみている。イメージしていた「我が子」感がない。
距離をとるとその他人感が一層強まる。私たちは紛れもなくそれぞれ独立した存在なのだとわかる。
・・・
出産前に私が心配していたのは、子どもという他者の存在が自分の生活を脅かすのではないか、ということだった。
確かに生活は激変した。前回の投稿をしてからの二か月半はあまりにも忙しくてnoteを書くことすらできなかった。
でも私の脳や心──精神はまだ支配されていないらしい。私は母である以前に「自分」でいられているようだし、なんとなく今後もこのままでいられる予感がする。
たとえ夫であっても、娘であっても、互いに精神のアイデンティティを侵食することなく暮らしたい──そんな暮らしが可能かどうかと出産前は怯えたものだ。
出産直後は失われたかに思えた「自分」がきちんと残っているという感覚を、今、喜んでいる。
・・・
時間が減って本もほとんど読めない一年だった。これまでの人生で間違いなく最も忙しい一年だった。
同時に、最も変化が激しく、そして最も幸せな一年でもあった。
お昼時が過ぎた。ふと気がつけば、さっきまでがらんとしていた店内が嘘のように女性のお喋りがこだましている。
ふわふわで甘々なパンケーキの最後の一口を、コーヒーで流し込む。束の間の幸せ。
一人ランチに2150円も使ってしまった背徳感でお腹を満たし、人気の少ない東京の街を歩いて帰ると、家では夫と娘が一枚の布団にくるまって昼寝をしていた。
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