世界初の探偵は曲者だった?

■エドガー・アラン・ポー『ポー名作集』

「真理はかならずしも、井戸の底にあるわけじゃない。それに、真理よりももっと大切な知識ということになると、こいつは常に表面的なものだとぼくは信じるな。深さがあるのは、ぼくたちが真理とか知識とかを探す谷間のほうなんで、それをみつけることができる山頂には、深さなんてない」(P.31)


アガサ・クリスティー、レイモンド・チャンドラーときたミステリーの旅、3人目はエドガー・アラン・ポー。

ポアロ、マーロウときたからにはデュパン……と言いたい所だけどそうではなく、江戸川乱歩が好きなのでポーはぜひ読んでみたかった。

のっけから小難しい話で始まるそのスタイルが意外にも心地よく、ポーが一番「しっくり」くるかもしれないと感じた。文章は読みやすい。『モルグ街の殺人』は特に、最初の一般論、続いてデュパンについての描写、そして事件の推理、とどの部分をとっても面白かった。

『モルグ街の殺人』を知ったきっかけはとあるドラマで(詳しく書くと完全にネタバレなので一応伏せておく)、結末を知っていて読んだ。その点でドキドキハラハラは少なかったけれど、デュパンの推理語りが独特で引き込まれた。

事件の形は密室殺人。しかし超能力や幽霊でもない限り密室殺人というのはありえない。物事には必ず原因と結果があり、特異な状況であればこそ推理は単純になるはずなのに、みな特異であること自体に惑わされてしまう……という話は非常に正論でなんだか耳が痛くすらなった。偶然にも一つ前に読んだ『ポアロのクリスマス』も密室殺人だったので比較すると面白い。トリックにそれぞれの“らしさ”がとてもよく出ている(時代も違うけれど)。


『盗まれた手紙』は最もシンプルにデュパンの理性的な思考を表した作品。単純な筋の中で、私たちの陥りやすい思考の沼を的確に説明してくれる。簡単なのに難しいこと。

「推理者の側の知性と相手の知性を一致させる、ただそれだけの話さ」(P.79)


推理する者としてのポアロ、マーロウ、そしてデュパンの違いが面白いなと思う。

マーロウは物語を見る視点であり、スタンスが主観的。マーロウというキャラクターの感情抜きにしては推理が為されない、という感じがする。

ポアロとデュパンはいずれも客観的に謎に立ち向かうのだけど、ポアロが「対話」から人間関係を読み解くことに重点を置き、さらに解決を「導く」という立ち位置であることに対し、デュパンは感情面を排除して第三者的情報からの推理に徹し(新聞を多用)、導く意志はなく延々と「一人語り」をする。ポアロに比べた時のデュパンの“曲者感”というか“若造感”がなんともいえずツボ。

そういう点で、ポーのつくる事件はもっとも純粋に「謎」めいているし、デュパンの推理はもっとも「謎解き」感がある……かな。

あ、暗号が使われている『黄金虫』。ごくごく単純な暗号の分析だけど、まさに謎という感じで面白かった。


ミステリーには「事件が起きて、解決する」という枠組みがあるので、クリスティーのようなストレートなスタイルが成立するし、そこに要素(チャンドラーでいうところの文学的表現、ポーでいうところの哲学的思考、のような)を足すこともできるんだなぁ。

俯瞰したミステリー像が見えてくると、ミステリーが愛される理由がわかるというか、ある枠組み内での幅広さに魅力があるんだなと感じ、ますます色んな作家を読んでみたくなった。

そして、なんだかんだアガサ・クリスティーは合間に読みたくなる。チャンドラーやポーを続けて読むのは疲れちゃうし、クリスティーは明解なプロットをなぞることができて心地よいです。

次はエラリー・クイーンとコナン・ドイルが読みたい!

理性が真実を求めて進むならば、それは尋常の次元を越えて顕著なことを手がかりにすべきだ。(P.117/マリー・ロジェの手紙)

この感じを忘れたくなかったのだけど、元日に南の島でこの投稿をしている自分もなかなか狂ってるなぁ。汗


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