論理的推理の、その後…

■エラリー・クイーン『Yの悲劇』


軽い気持ちで書いているnoteでも一つ気をつけていることがあって、それは、たとえイマイチだと思った本でも紹介する限りは悪く書かないこと、良いところを探すこと、です。

でもこの『Yの悲劇』に関してはどうしても本当の気持ちを書きたい。

だからもし、エラリー・クイーンが大好きで、悪いレビューを読みたくないという方がいたら、申し訳ありませんが回れ右してください。ネタバレはしませんが、まだ本作を読んでいない方はできれば読まないでください。先入観を持ってほしくないので。

最初に断っておくと私もエラリー・クイーンは好きです。






大いなる敬意や愛情は、ただその存在そのものを理由に、突如として、大きな失望や憎しみに変質する。


以前からその可能性は常々意識していたのだけど、今回エラリー・クイーンやドルリー・レーンに感じたものは、それに近かったと思う。

私は、エラリー・クイーンという作家に大きな期待を抱いていた。実際に終盤までその期待を裏切らない展開を楽しんでいた。「これは、今まで読んだ中で一番面白い探偵小説かもしれない」とすら思った。

そして読み終わった今も、その評価がまるっきり違うとは思わない。でも……どうしても拭えない負の感情がある。

これから先、『Zの悲劇』も『レーン最後の事件』も間違いなく読むだろう。でも少なくとも『Yの悲劇』に関して、今は拍手できない。


その理由は一言でいえば、ドルリー・レーンという探偵に共感できないからだろう。

思えば『Xの悲劇』を読んだときから、レーンには共感できなかった。むしろ虚構じみた存在に拒否反応すら示しかけた。

それでも、クイーンの推理──論理的に組み立てられた語り、はとても魅力的で、だから『X』を高く評価したし『Y』にも期待した。しかし今思えばそれは、レーンという探偵ではなく作者のクイーンに対する評価だった。

『Y』の中に、このような台詞があった。シャーロック・ホームズの外見で、ポアロの性格で、エラリー・クイーン(※探偵役としての)の推理……。そう、クイーンの推理はホームズやポアロよりも際立って優れていると、私も感じた。でもレーンは、ホームズやポアロが有している人間らしい温もりをどこか欠いているように思えてならない。


と、まあこんなに大げさにレーンを批判するのは、本作を読んだ人でも「え?」と思うかもしれない。

この感情は、同族嫌悪であり、似ていながら全く理解できない人間への恐怖心であり、大きな期待の裏返しであり……たぶんそんな感じだろうけど、どうしてこんなにモヤモヤするのだろう?何が気に入らないのか?自分でもよくわかっていない。

不安なのかもしれない。瞳の奥の(そんな描写はないのだけど)どこまでも続く感じが、心の底が掴めない人に思えてしまって。


かの有名なミステリーと、同じと言えるのか?

死刑とは、冤罪とは、宗教とは、道徳とは、正義とは……。

どうすれば良いのか、わからない。行為とは、今日まで教義で学んできたように、これが正、これが邪、これが善、これが悪というように、はっきりと区別できるものではなかった。
(遠藤周作『沈黙』より)



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