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あえて内向的に生きる

コロナ禍と出産を経て、この2年ほどの間に私の内外で無自覚的に、ゆるやかに、しかし確実に変化したことが一つある。

もともと内向的な人間だと自認していたが、そこに拍車がかかったのだ。今の私は「内向的に生きる」ことを否定せず受け入れ、さらに、より内側に向かっていこうとしている。




変化を振り返ると

冒頭に書いたように変化は無自覚的かつゆるやかだったので、原因と結果の因果関係は定かではない。しかし振り返って整理してみると、このような年表になる。

1.SNS中毒期|2020〜2021
コロナ禍をきっかけに、SNS(Twitter)にどっぷりハマった時期があった。しかしSNS疲れが生じ、意識的に離れようと試みたが、完全には離れられなかった(中毒に近かった)。

2.生産性格闘期|2022〜2023
出産後、時間がなくなって自然とSNSを見る回数が減った。英語学習を始めてさらに時間がなくなり、SNSをほぼ見なくなった。同時にnoteを書く頻度も落ちたのだが、書きたいという気持ち自体はあり、自由時間に試すものの、思うように書けず、お蔵入り……あぁ時間を無駄にした。と、生産性にがんじがらめにされる日々。

3.内向性強化期(=今?)|2024〜
SNSを見ないほうが自分の精神が圧倒的に健康になると気づいたので、人格を感じるSNS(XとInstagram)は見ないようになった。また、noteのように発信を前提とするツールではなく、自分しか読めない文章を書くべく「Day One」というJournalを始めた。

結論として今は、
SNSをやらない
■自分だけのために文章を書く

この2つを軸にした生活スタイルにシフトした。



SNSをやらない

思えばTwitterが登場した15年ほど前から、私は継続的に何らかのSNSをやっていた。それ以前のmixi時代を含めれば思春期からずっとだ。いわゆるSNS以外にも、ブログは中学生から始めていたし、HPも自分で作っていたし、どっぷりデジタル人間の自分にとっては「デジタルな受発信」がイコール日常だった、と言っても過言ではない。

しかし上に書いたように、コロナ禍の「SNS中毒期」から、なんとなく疲れを感じはじめた。発信すればリアクションが気になるし、受信すれば相手にペースを乱される。

子どもを産んでからその感覚が強まった。SNSの情報に触れるたびに、他人と比較してしまう自分がいた。「子育てばかりで他の人みたいに仕事が思いっきりできていないのかもしれない」「子どもを他の人みたいにもっと色々な場所に連れていってあげなければいけないのかもしれない」「もっとお金を稼がなければいけないのかもしれない」……などなど。

目の前の子どもと接しているだけならば幸せを感じるのに、ひとたびネットの情報に触れると、満たされない気持ちになる──それが、一言でいえば「不快」だった。

もちろんSNSで流れてくる情報はそれ自体が人を不快にさせるためのものではない(場合が多い)。また、発信している人たちの人格そのものが不快なわけではない。

けれども、私が弱いせいで、どうしてもペースを乱されてしまう。

上の年表に書いたように、そもそも時間がなくてSNSと距離を自然に取れていたこともあり「もうSNSを見るのはやめよう」と決めてみた。そうしたら、すごく心が軽くなった。



自分だけのために文章を書く

noteをSNSと呼んでよいのかは議論が分かれるところだと思うが、私はSNSと少し違う土俵だと考えている。なので、noteをやっていても不快な気持ちになることはほとんどなかった。

noteに関する問題はより個人的なもの。平たく言えば、文章が上手く書けなくなってしまったのだ。例えば週に1日、捻出した自由時間を1時間使って文章を書こうとすると、なんだかうまく書けないのだ。

自分なりに分析してみると……

私の場合はnoteを「超フリースタイル」で書いている。つまり、書きたい時に、書きたいことを、書きたいように書く。決められたフォーマットも頻度も文字数もテーマもなんにもない。そこにあるのは「書きたい」という気持ちだけだ。

しかし産後に自由時間が減り、「書きたい」時に書けなくなった。だから「書きたい」気持ちをストックしておいて後で書いたりするのだが、その時にはもう「書きたい」という気持ち自体が弱くなってしまっており、うまく書けない。

うまく書けないなりに書くと、だいたい1時間程度の時間を使った結果「なんか違う」となって、ボツ。そんなことがかなり多かった。

1時間使ったのに……ボツか。というショック。
書きたいはずのことが書けないもどかしさ。
自分、文章下手なのか?という焦り。

そんなこんなで、noteを書くことを恐れるようになってしまった。抽象的なネタほど「書きたい」気持ちを捕まえないと書けないので、非抽象的な(ガジェットとか、英語とか)話題が増えた。また、そもそも読書する時間がないので、読書感想noteも書けない。

これはnoteのせいではなく、周囲のせいでもなく、完全に個人的な問題だ。そのようなわけで、noteとの相性が悪い日々が続いた。

・・・

そしてつい先日。きっかけは忘れてしまったが、「Day One」というアプリに再会した。数年前に試したこともあるのだけれどその頃は上述のように(自分的)SNS全盛期だったので、続いていなかった。

私は物心ついた頃からブログを始めていたせいで、「書く」=「発信」という思考回路になっていた。外に出さない文章を内向きに書くという発想がなく、書いても手帳のなぐり書き程度だった。

けれど、昨年から始めた「五年日記」が意外と楽しい、という発見とか、note書けない問題とか、SNS離れとか、子どもの成長とか……もろもろを総合すると、このような"Jounal"を自分だけのために書くという営みが楽しそうでかつ今の自分に合っているように感じられた。

使い勝手がよく、長く続いている信頼できるアプリなので、おそらく継続して課金すると思う。



内向的に生きるためのiPhoneホーム画面

(ここで突然身を翻してガジェットネタに?)

もはや生活に欠かせないスマートフォン。iPhoneのホーム画面も、自分の心地良い姿に変えてみた。

(天気アプリの地域は消しています)

これが1ページ目。本当に必須かつ「心を乱さない」アプリに限定した。

もともとは大量のアプリをフォルダ管理していた。でもアプリが並んでいるとなぜだか「時々開かなければいけない」気持ちになってしまい、心が乱される。返す返すも弱い人間なのだ。検索すれば簡単にアプリを呼び出すことはできるので、いっそのこと、究極に減らしてみようと思った。

心を乱さない──そう、この1ページ目と下のドック(?)のアプリは、私に通知を送ってこないおとなしいアプリたちだ。通知の数字を見て心を乱されることもない(どんだけ心が乱されやすいんだ)。

YouTubeは少し異質な存在に見えるかもしれない。これは主に英語学習用なのだが、YouTubeの動画は作成するのに労力がかかるので他のSNSほど軽い言葉は飛んでこないし、そもそも知り合いがやっていないから他人と比較して落ち込むこともないし、私にとってSNSとは違う扱いになっている。

(Habitというアプリの一部は白塗りしてます)

これが2ページ目。他人と連絡を取り合うためのアプリを並べている。

消してしまうとさすがに日常生活に支障が出るので、バッジが見れる状態にした。それにしても一軍から二軍に降格させたのは我ながら英断だったと思う。これ、かなり心が軽い。

【追記】勢い余って「電話」アプリまで消してしまっていたことに気づき、追加しました。


この先、3ページ以降にアプリアイコンはない。「Kyash」という家計のお金を管理するアプリ、「頭痛ーる」という気圧を見るアプリ(頭痛持ちのため)、ニュースアプリ、とそれぞれのウィジェットを並べて情報をすぐ見れるようにしている。


ちなみに1ページ目の「Image Search」はアプリではなく、ショートカットで作成したもの(アイコン画像は拾いもの)。

英語学習のために、知らない単語はまず画像検索したいので、ネットで調べて作成した。これまではSafariやChromeの検索バーで英単語を調べていたが、真っ先に画像が見たいのに、日本語訳(文字)が先に表示されてしまうという小さなストレスがあった。

クリックするとこういう画面になる

今回の話とは関係がないのだけれど、iPhoneの言語設定を最近英語にして使っている。英語で情報収集をする時に肝心のiPhoneが日本語だと何かと不便なのだ(例:英語のガジェット系YouTuberは「設定」アプリを「Settings」と呼ぶ、とか)。ただ、言語を英語に設定していると、役所のHPを見るときなどにいちいち「英語で表示しますか?」と聞かれてしまうのが面倒。さすがに役所の情報を英語で読む気力はない……


・・・

「内向的」な人間であることを肯定し、加速させてもよいかもしれない。

と思えたきっかけは、英語学習の途上で知ったあるYouTuberの影響が大きい。その話も、また書けたら書きたい。納得のいくように書けたらいいな。



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