彷徨いのミステリー

■レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』


初めてチャンドラーを『ロング・グッドバイ』で読んだときに抱いた感想は、「ミステリーじゃなくて普通の文学だなぁ」だった。あっちへ行ってこっちへ行ってと振り回される。探偵マーロウが華々しい推理を披露するわけでもない。そもそも何の事件を追っていたかもよくわからなくなる。

でもそんなことどうでもいいや。と思えるくらい、チャンドラーの饒舌な語りと力づくの振り回し方と美しい結末は見事だった。


そしてこの『大いなる眠り』はチャンドラーの長編処女作であり、マーロウがデビューした作品。まだ33歳の血気盛んなマーロウが見られる(ただしやってることはあまり変わらない。マーロウはかなりのイケメンなんだろうね?マーロウのこと拒む女いないの?どうでもいいけどさ 笑)。

正直に言うと『ロング・グッドバイ』や『さよなら愛しい人』のほうが完成度が高くて、くねくねとカーブしながらも最後はきれいにまとまっていたように思う。ちょっと筆が走りすぎている感じがあって、チャンドラー自身まだ文体をコントロールできていなかったのかなぁ……と微笑ましさも。

何が謎なのか、何が解決したか、そういう答えを求めてはいけない。チャンドラーは「彷徨うこと」それ自体を読者に体験させているのだと再認識した。


いつものことながら、村上春樹による解説がわかりやすい。文体の癖と理解しにくい物語でアンチも多い人だけれど、論理的・客観的なものの見方ができて文章がとても上手いという稀有な存在だと思う。

私は小説を読むときに「解説」を読むのが大好きで、なんなら我慢できずに先に読んでしまうことがしばしばです(ミステリーはたまにネタバレがあるので注意)。個人的感想として、彼ほど“読ませる”解説を書く人は多くない。「私はこの作家(小説)にこんな思い出がある」という話に終始せず、かと言って、状況証拠や参考文献をかき集めたものでもない。ちゃんと自らの頭で考えたことが伝わってきて、なおかつその思考は作家的マイワールドではなく、客観性が高い。だからこの人の文章は魅力的なんだなと(チャンドラーと関係ないけど)気づきました。


チャンドラーにとって「ミステリー」というのは単なる枠組みにすぎず、そこに作家としてのアイデンディディーや必然性はなかった、という話を読んでとてもしっくりきた。

彼が必要としていたのはあくまで何かしらの枠組みであり、それがたまたま「ミステリー」というフォーマットであったということではないかと、僕は考えている。

チャンドラーの突出した才能はその文体と描写の上手さにあり、プロット作りに長けていたわけではない、と村上は語る。確かにミステリーらしい整合性がないし、プロットに対する熱量もそこまで感じられない。でも──「だから」というべきか、純粋に枠組みのない文学で勝負する力はチャンドラーにはなかったのだろう。

まずミステリーがあって、それにあわせて彼の文体ができたのではない。まず彼の文体が(潜在的に)あり、そこにミステリーがあてはめられたのだ。

私は最初にアガサ・クリスティーを二冊読んで、それからチャンドラーを読んだ。その時(ここにも書いた気がするけど)「事件が起きて解決する、という確固たる枠組みがミステリーにはあって、だからこそ作家によって幅が出るのが面白い」と思った。

ミステリーの枠組みは強固だ。強固だから、安定して面白い。でもその強固で安定した枠組みこそが「文学性が低い」と捉えられてしまう所以だろう。

チャンドラーはそういう点で若干の葛藤を恐らく抱きつつも、「ミステリー」という枠組みを利用した上でさらに強引に乗り越えようとした。その独創性によって、彼の作品は文学として評価されるに至ったんだな。……と思うと、50歳を過ぎて長編作家に転向した作家の覚悟を感じる。

解説で作品の価値が変わるわけでは決してないけれど、解説を読むとよりその作品や作者を好きになることが多い。

「すべてはロジカルに解決されているけれど、話としてはそんなに面白くない」小説よりは、「うまく筋の通らない部分も散見されるものの、話としてはなにはともあれやたら面白い」という小説の方が、言うまでもなく読者にとっては遙かに魅力的であるわけで、もちろんチャンドラーの小説は後者の範疇にある。 

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