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「僕の知性は空転するエンジンみたいなものだ」

■アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』

「僕の知性は空転するエンジンみたいなものだ。仕事をさせるために製作されたのに、その仕事が与えられなかったら、破裂してこなごなになってしまう」(「ウィステリア荘」) ー 9ページ


長編4冊、短編6冊(新潮文庫の場合)、合わせて10冊あるホームズシリーズも、これで8冊目となった。

短編集『シャーロック・ホームズの事件簿』がこの後に出版されているが、この『最後の挨拶』に収録されている短編「最後の挨拶」が、物語の時系列では一番うしろにくるものらしい。つまりホームズは、またもやファンの要望にこたえて復活するわけだが、それは過去の回想という形をとっているようだ。

要するに短編「最後の挨拶」に出てくるホームズが、最も年老いた、私たちの知る最後の姿になっている。

そう思うとどうにも悲しく、悲しいけれど、なんかハリウッド映画さながらのホームズ&ワトスンの爽やかオジサンズ感が愛しい。欲を言えばもう少し二人でしっとりしてほしいところだが、けっこうアッサリ終わっている。

いつもながらホームズは変幻自在だ。


ホームズシリーズを読むたびに確信を深めることが二つ。

一つは、ホームズがあくまで架空のヒーローであるということ。

↑のエントリで書いたように、あくまで乱歩の説だけれど、

ホームズ=架空の人物/ワトスン=著者(コナン・ドイル)
●デュパン=著者(ポー)/「私」=架空の人物

実際にコナン・ドイル自身も、ホームズにはモデルがいると言っているので、ある程度正しい考察だろうと思う。

デュパンに比べてホームズが際立ってカッコよく、チャーミングで、イケメンで、女心を掴むのは、ホームズが実在し得ない人物像だからなのだろう。と、読めば読むほど思う(私はデュパンの変な感じも好きですが)。

こんなに魅力的な人なんてありえない。うっかり「ホームズがタイプ」なんて思っちゃうと、危険だなぁ。


もう一つは、ホームズシリーズがどこまでも「冒険譚」であること。

作家ごとに傾向が違うことがミステリーの面白さだけれど、ホームズシリーズに関しては、冒険抜きにしては成立しないように思う。

読んでいると、だんだん、ミステリーを読んでいるんだか冒険譚を読んでいるんだかわからなくなってくる。「もう別に、推理しなくてもいいや。」と言うと失礼かもしれないが、作者との知恵比べなんてしたら愚かなのかも……という気分になる。

短編ひとつひとつも、しっかりした冒険譚として書かれているので感服する。けれど、なんといってもやはり、長編『恐怖の谷』の素晴らしさには敵わない。あの興奮は多くの人に味わってもらいたいな。

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