「美しい」とは何か
この世界は、自然が生み出したものの中で、最も偉大で、最も美しいものです。そして、人間の精神は、この世界の観察者にして賛美者であり、この世界の最も偉大な一部です。それは、われわれだけの永遠の所有物であり、われわれが存続し続けるかぎり、われわれと共にあるのです。
──セネカ『人生の短さについて』
以前から書きたいと思っていたことです。
私は日常的に「美しい」という言葉を使うのですが、「美しい」という形容詞には、その他の似た言葉、例えば「きれい」「かわいい」「かっこいい」等とは明らかに違う意味が含まれていると思っています。
少なくとも私は「美しい」でしか言い表せない何かがあると思い、区別して使っています。
では何が「美しい」のか。なぜそれは他の形容詞と違うのか。を考えてみます。
※あくまで個人的な見解です。
●人間の容姿の美しさ
たとえば、ある女性芸能人を見て「美しいなぁ」と思うのと「きれいだなぁ」と思うのはどう違うのでしょうか?
「戸田恵梨香は美しい」という表現と「戸田恵梨香はきれい」という表現に違いはあるでしょうか?
この場合、個人的には、言葉を区別していません。「美しい」=「きれい」だと思っています。
「無分別もいいところだが、それはきっと若くて、美しい女性なんでしょうな。若くて美しいというのは、罪なことです」
──アガサ・クリスティ『ゴルフ場殺人事件』
あくまで私の場合ですが、あまり人間の容姿に興味がないのです。笑
例えばボディビルダーの人の肉体に対して「美しい」と言うのは「きれい」「かっこいい」と違うと思うのですが、そもそも興味がなくて「美しい」と思わないので、なんとも言えません。笑
……なので私個人としてはあまり使わないのですが、彫刻的な視点をもっている人は、人間の骨格に対して「美しい」という表現を用いることがあると思います。それは一言でいうと「整っている」ということだと思います。
肉体や顔に対する「きれい」「かっこいい」はあくまで個人的な好感の表現ですが、対して「美しい」は「整っている」「バランスがよい」「完成度が高い」というニュアンスを含むのではないでしょうか。
●普遍性
今書いたように、「きれい」「かっこいい」はあくまで個人的な好感の表現だと思っています(それが多くの人に同意されることもあると思いますが)。
たとえば
「今日は月がきれいですね」
という台詞からは、
「私は今日の月がきれいだと思いますが、あなたはどう思いますか?」
という、一歩引いた感じを受けます。
一方で
「今日は月が美しいですね」
は、
「(私が思うだけでなく、誰がどう見ても)今日の月は美しいですよね」
という強いニュアンスが含まれる気がするのです。
もしかしたら、「美しい」という言葉を発するとき、その人は自分の美意識に自信があるのかもしれない。
「きれいだなぁ」「かっこいいなぁ」は、自分の主観を表現しているに過ぎず、他人が「いや、私はきれい(かっこいい)とは思わない」と否定してきても「そっか……趣味が合わないね。残念」で済む気がします。
一方で「美しいなぁ」に対して「いや、私は美しいと思わない」と否定されると、「え?どう見ても美しいじゃん」と説得したくなります。笑
そう考えると、「美しい」は普遍性を担うように思います。少なくともその言葉を使っている本人は、美しさが一時的/主観的なものではなく、普遍的なもの──つまり、万人に共通で時代に左右されないもの──と思っているのではないか。
なぜこれが正しいのかと問われたら、そう思うのが一番自然だからとしか答えようがない。何が自然で何が不自然かというのが人間の価値判断から来るのであれば、それは「美しい」という感覚とほぼ同じと言ってよいだろう。
──加藤文元『数学する精神』
●「美しい」ものは、他と違う
そのように、整然としてバランスがよく、普遍的なものを「美しい」と表現しているとして、でもまだ何か足りない。
私が最近思うのは、「美しい」ものには「独自性」と「意外性」があるということです。
何かを見て
「美しい……」
と感嘆するときに、そこには
「これは他のものとは違う」
とか
「今までにこのようなものを見たことがない」
という意味が込められているのではないか。その「驚き」の感覚にこそ「美しい」を紐解く重大な鍵があると考えています。
この特徴は、「美しい」を理解するのにもっともわかりやすい定義ではないかと個人的には思います。
・整っているかどうか
・普遍的かどうか
・シンプルかどうか
を考えても、「美しい」がもつ要素としてはまだピンとこない。
けれど
・独自性があるか
・意外性があるか
を考えると、ふるい落とせる対象があるのではないでしょうか。
※「シンプル」を当たり前のように定義に含めてしまってますが、「なぜ美しいものはシンプルなのか」を説明するのはちょっと難しい。あえて言うならば「普遍的なものはすべからくシンプルである」ということかなと。つまり「普遍的」という定義が第一にあって、だから「シンプル」も当然入ってくるよね。という感じで考えています。
私がよく考えるのは、精巧な絵画や工芸品についてです。
時々Twitterでも、写真と見紛うぐらいよく描かれた絵が流れてきたりするのですが、それらは「きれい」「すごい」「上手い」と言えても「美しい」とは言えない気がします。そういった絵には、独自性や意外性がないと思います(あくまで私の考えです)。
もし、そのような作品が自分にとっては初見のもので、すごい!と驚いたとしても、あくまで「技巧のすごさ」という評価軸である。
そのように考えると「技巧のすごさ」には「美しい」という表現を使わないのか──と疑問に思います。個人的には、「技巧のすごさ」自体に「美しい」を使うことはないと思っています。
●技巧は美しくないのか?
では「美しい」技巧というものがないのか。
これは難しいです。正確には、ある技巧の成果として作られたものが美しいときはあっても、技巧自体が美しいことはない気がする。
技巧のすごさにオリジナリティが加わっていれば、結果として「美しい」ものは生まれると思うのですが、ただ単にすごいだけでは「美しい」とはならないと個人的には思っています。
では、「美しい手さばき」という表現は間違っているのか?
細かい話ですが、身のこなしや手さばきに対しては「美しい」と表現できると思うのだけど、技巧そのものは「美しい」と言えないと思う──ということです。
このあたりはもう少し考えなければ。
●いろいろな美しさ
以上の話をふまえて、具体的に「美しい」を使う場面を見てみます。
「美しい暗号だ」
いきなり暗号というのは一般的な使用法ではないかもしれないけど、ぱっと思いついたので。笑
今までに定義した「整っている」「普遍的である」「シンプル」「意外性」「独自性」を満たすかどうか考えると、けっこうわかりやすいのではないかと思います。
仮に、整っていて普遍性があってシンプルでも、「どっかで見たことあるな(=独自性がないな)」という暗号は「美しい」と言い表せません(……と私は思います)。
「美しい暗号」は、オリジナルで、驚きを与えるものです。他とは違う、見たことがない──そういうものが「美しい」。同様のことは「美しい数式」などにも当てはまります。
しかし、今私が定義してきた考え方だと
「美しい言葉遣いですね」
「私たちの友情は美しい」
こういう「美しい」はちょっとズレる気がします。
まず言葉遣いについて。私にとって「美しい言葉遣い」は「きれいで整った言葉遣い」と同等に感じられます。言葉遣いが芸術的に美しかったりするのも、なんか重いし。笑
もしかしたら一般的に、広い意味での「美しい」は「きれい」とニアイコールの場合が多いのかもしれない。最初の芸能人の容姿の例もそうです。
感嘆詞としての「美しい」はほとんどの場合、このように「きれい」という好感の最上級表現として使われているのではないでしょうか。そして、それが間違っているとは思いません。
紅葉を見て「美しいなぁ」と漏らすときに、「きれい」では表現しきれない感動を「美しい」と言っていると思います。(ただ、細かく見ていけばその美しさは今までの定義にだいたい当てはまる場合が多いかと。)
次に、友情について。友情が「整然としている」とか「シンプル」とか「意外性がある」ってのは、ちょっとおかしな話ですよね。かといって、ただの最上級表現でもないし。
この場合の「美しさ」は一体なんだろう?
頑張って言葉にしてみると、「美しい友情」は「純粋で、尊い友情」などと言い換えられるかもしれない。汚れ(けがれ)がなく澄んでいて、お互いに相手を思いやる尊さがそこにある。「愛」の美しさも同じかもしれません。
これは、完全に逃げですが……人間関係の美しさはちょっと次元が違うのだろうか?
月が美しい、地球が美しい、サグラダ・ファミリアが美しい、ミロのヴィーナスが美しい、エマ・ワトソンが美しい、夏目漱石の文章が美しい、モーツァルトの音階が美しい、ヴィジュネル暗号が美しい、オイラーの等式が美しい、MacBookが美しい、冬の空の色が美しい、フランス語が美しい──という「美しい」は、私→モノに対して感じる美しさです。つまりそれは、あるモノが独立あるいは完結して「美しい」という状態です。
でも、夫婦の愛、親子の愛、友情、国民の団結、そういうものに対して使う「美しい」は、誰かと誰かの間に成立している人間関係の美しさです。それはモノ単体の美しさよりもっと「感情」にベースを置いていて、流動的に思えます。
●輝き
そう考えると、どんな種類の「美しい」という言葉も共通してもっているものは、ある種の「輝き」ではないか。と思えてきました。
じつに美しい夜でした。あんな夜には、肉体に閉じこめられた魂が耐えられなくなり、いまにも宙に漂い出していきそうな気がしてくる。死が親しい友人のように思えてくるのです
──サマセット・モーム『月と六ペンス』
テレザとは七年一緒に過ごした。そして今、その年月は暮したときより思い出の中でいっそう美しいことに気がついた。
──ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
直子への手紙の中で僕は素敵なことや気持の良いことや美しいもののことしか書かなかった。草の香り、心地の良い春の風、月の光、観た映画、好きな唄、感銘を受けた本、そんなものについて書いた。そんな手紙を読みかえしてみると、僕自身が慰められた。そして自分はなんという素晴しい世界の中に生きているのだろうと思った。僕はそんな手紙を何通も書いた。
──村上春樹『ノルウェイの森』
地上のいかなる幸福も、美しい豊かな精神が時をえて自らの中に見いだす幸福には比すべくもない。
──ショーペンハウアー『読書について』
「宇宙から地球を見るとき、そのあまりの美しさにうたれる。こんな美しいものが、偶然の産物として生まれるはずがない。ある日ある時、偶然ぶつかった素粒子と素粒子が結合して、偶然こういうものができたなどということは、絶対に信じられない。地球はそれほど美しい。何らの目的なしに、何らの意志なしに、偶然のみによってこれほど美しいものが形成されるということはありえない。そんなことは論理的にありえないということが、宇宙から地球を見たときに確信となる。」(サーナン)
──立花隆『宇宙からの帰還』
これらを一つ一つみていって、この美しさはああだとかこうだとか考えることもできるのですが、もっとざっくり「輝かしい」というキラキラした感じ、圧倒的な存在感がそこにはある。
今までの試みが何なのかと思えてしまうけれど、結局は、言葉に表せない圧倒的な輝きを感じたときに、それを言葉にするときに人は「美しい」という言葉を使うのではないだろうか。
たしかに、整然としていたり、驚きがあったり、普遍性があるかもしれない。
けれど、「美しい」を分解して説明しようとする100の試みは、
ただ、それが「輝いている」
という事実と例示の前にあっては、なんの意味も成さないのかもしれません。
ひとつだけ言えるのは、気持ちよく生きて、美しいものだけを見ていても、感受性は身につかないということです。世界は痛みで満ちていますし、矛盾で満ちています。にもかかわらずきみはそこに、何か美しいもの、正しいものを見いだしたいと思う。そのためには、きみは痛みに満ちた現実の世界をくぐり抜けなくてはいけません。その痛みを我が身にひりひりと引き受けなくてはなりません。そこから感受性が生まれます。
──村上春樹『村上さんのところ』
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