「一場の夢は一巻の書物なのだ、そして書物の多くは夢にほかならない」

■ウンベルト・エーコ『薔薇の名前〈下〉』

「書物というのは、信じるためではなく、検討されるべき対象として、つねに書かれるのだ。一巻の書物を前にして、それが何を言っているのかではなく、何を言わんとしているのかを、わたしたちは問題にしなければならない」(P.100)

うーん……。あまりに圧倒されてしまったし、たくさんの主題があって、まったく気持ちが整理できないというか何を書いていいかがわからない。「異形の建物」の迷路のように、この物語自体が迷宮と化しているようだ。私が無学で背景を知らないせいかもしれないけど、知っていたらそれはそれで、迷宮が深まるばかりのような気もする。


書けることから書いてみよう。まず、翻訳が上手い。決して平易で読みやすい文章ではないけれど、それはもとの内容が難しいからであって、日本語としての違和感のなさと語彙の置き換えはかなり上手いと感じた。

アドソが啓示ともいえる夢を見るシーンは圧巻。著者エーコの比類稀なるたくましい想像力と、この翻訳者(河島英昭氏)の日本語訳の競演。力と力のぶつかり合いのようで、圧倒され、引きずりこまれ、いつしか自分もその夢を見ている。


上巻のレビューでも書いたように、チャンドラー同様に細部の描写が豊富ながら全く違うタイプ。という印象はますます強まった。

チャンドラーの場合、描写に(意図的かはわからないが)余白が残されていて、その余白を読者が想像力で埋めることができる。たとえば一個の林檎を描写するにしても、それが赤いのか青いのか、新鮮なのかしなびているのか、大きいのか小さいのか、という直接的な表現は避ける。「祖母が向かう食卓の上で、カゴの中にただ一つ取り残された林檎」とかなんとか(うん、この例えが下手すぎるのは、無理やり書いてるのですみません 笑)。「細密さ」というよりはむしろ「描写の巧さ」に特徴があって、本筋に関係ない人物やシーンにもいちいち巧い比喩や描写をのっけることにより、寄り道させる。

が一方で、エーコの描写は直接的で細かく、想像で埋めるべき余白があまりない。たとえば先ほどの夢の話なら、イエスは何色の服を着て何を食べどう動き、一方でユダは、アダムは、サラは……という風に「ちょっと途中読み飛ばしても大筋変わらないんじゃないか」というぐらいの細かさ(実際に大筋には影響しない)。チャンドラーのストーリーが二次元的で映画を観ているような印象だとすれば、エーコのそれは三次元的で、存在するものをあらゆる方向から描写することによって形にしていくような。3Dプリンターっぽい。


あとは……どうしても、今やっている企画のことを思い出さざるをえない。

『薔薇の名前』は難解で、描写が細かく、リアリティがあり、読み解くために必要な知識がとても多い(聖書、宗教、ギリシア神話、ヨーロッパの地理、歴史、記号、言語etc.)。そのせいでつまづく人もいると思う。それらをほぼ知らない私でもなんとか読めて、ミステリーとしてすごく面白いのだけど、聖書とギリシア神話について知らないと楽しみは1/10くらいに損なわれているだろうと感じ、結果としてそれらの文献を購入するに至った。

一方、今回の企画。何も知らない人(例えば巷の謎解き界隈の方々)が参加しても全体の流れとしてあるいは個々の謎として、十分楽しめるとは思う。でも、ミステリー(アガサ・クリスティは絶対として、できればエドガー・アラン・ポーとコナン・ドイルと名探偵コナンあたりも……)を知っていて、なおかつ暗号の知識があると何倍も楽しいと思う。

実際に参加した人たちが(自分も含めて)より企画を楽しみたいと感じて、途中でそれらのミステリーや暗号についての本を読んでいたことを思い出すと、私がいま抱いている聖書とギリシア神話に対する渇望(知識欲)に、どこか似ている。

ここで忘れてはならないのが、もし細部が省かれたら、その作品は全くの別物になるということ。プロットが優れていれば別の良いものになる可能性が高いけれど、そうならない可能性もある。言うなれば、持ち味。

おそらくエーコの持ち味は細部だけではないので別に心配していないし、デュパンさん(人間のほう)もたぶんそう。でも、別物は別物だ。同じではない。つまり『薔薇の名前』はこの細かさとリアリティと難解さだからこそ面白く、読者側のある種の欲を満たしてくれるのであって、シンプルにこざっぱりとまとまった『薔薇の名前』があったとしても、売れたかはわからない。


思いつくままに書いていたら、核心について書くべきことがますますわからなくなってしまった。笑

すごく面白かったのに、何を語っていいかわからない。

単なるミステリーの枠は超えまくっていて、哲学と宗教、記号論、歴史──絡み合う要素が多いので、いま何にどう感じているか、自分でもよくわかってないのだと思う。「なんかすごい」「なんかやばい」というハイパーボキャ貧な感想しか出ない。

一つだけ言えるとしたら、この物語は他の物語にも増して「終わりこそが始まり」という感覚を抱かせる。

確かに物語は終わった。解説も読んだ。本は閉じられた。なのに、全然終わった感じがしない。

「さあ、ここからあなたは何を考えるのか?」という問いかけが、この長くて短くて濃い七日間の物語──いやそのずっと以前、世界と神の誕生、預言者の到来、アリストテレスの哲学にも遡って──を通して、事実とも虚構とも判断がつかない状態でごちゃまぜに詰め込まれ、提示されてしまったというか……。

もちろん、そこで何を考えるかは読者の自由だ。記号論なのか、推理なのか、神の存否なのか、愛なのか、悪魔なのか、哲学なのか、「笑い」なのか。

私は……やはり神について考えたいと思う。こんなことをアドソが言った。

「でも、どうして存在し得ましょうか、可能性を全面的に織りこんだ必然的存在などが?どのような差異が、それならば、あるのでしょうか、神と原初の混沌とのあいだに?神の絶対的全能とその選択の絶対的自由とを肯定するのは、神が存在しないことを証明するのに等しいのではありませんか?」(P.372)

神が存在しようがしまいが、そんなことはどうだっていい。と言ってしまうとちょっと暴力的だけれど、興味があるのは人間の側だ。神の全知全能を許すために人間が用いる詭弁。それらが論理や科学とどう共存しているのか。歪みはどう処理されるのか。(きっとどこかにブラックホールのようなものがある。)


たまたま、Newton「無とは何か」という特集を読んでいた。

ゼロを分母にすることは許されない。これは数学の決まりごとである。ゼロを分母にしてしまったら、数学が揺らいでしまうから。──この説明で納得できるだろうか?(実際はもっとしっかり説明されているのだとは思うけど)

ビッグバンに関しても、あらゆる物理学に関しても、説明を読んでいるとたまに「ん?」と思うのは、人間が目指したい結論に向かって実験や証明が作られているように感じられるからだ。うまいことピッタリはまったら、相対性理論でも量子論でも、「あ、すごい!はまった!」みたいに使われて。穿った見方だとは思うけど、印象としてはそう見える。

まだ感覚的に理解できない。彼ら西欧圏の人たちが神と科学を共存させている思考回路が。

うん、ちょっと脱線が甚だしく、まったく終着点が見えてこないので、このへんで終わりにします。笑 まったく良さの伝わらない混沌とした感想文ですみません。

ロジャー・ベーコンの知識への渇きは、欲望ではなかった。彼はあくまでも神の民をさらに仕合わせにするために学問を利用したいと願ったから。それゆえ、知のための知は追究しなかった。ベンチョのそれは、単に飽くことのない好奇心であり、知性の驕りであり、一人の修道僧が自分の肉体の欲望を宥めたり、その捌け口にするための手段の一つと、何ら変わるところがなかった。(P.225)



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