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年齢を重ね、やさしくなるのだとすれば、

忘れられない事故がある。
2016年秋、神宮外苑で開催されていたイベント「TOKYO DESIGN WEEK」。その会場で学生が展示したジャングルジムから火災が発生し、遊んでいた5歳の男の子が命を落とした。

あまりにも衝撃的な事故だった。

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当時、働き始めてまだ日が浅かった私は、ショックを受けた。5歳の男の子が、燃え盛るジャングルジムの中で命を落とす──想像を絶する、悲惨な出来事である。その子も、そばで見ていた親も……「かわいそう」という言葉では到底言い表せないほどの辛さを、誰もが感じたことだろう。

しかし私がショックを受けたのは、被害者サイドの悲惨さだけではなかった。

結果として加害者になってしまった学生たちがいる。彼らの心境や境遇を想像すればするほど、「それはもしかしたら自分だったかもしれない」と思えた。そちら側に強く感情移入してしまったのだ。

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火災の原因は、周囲が暗くなってしまったために急きょ作品内に設置された投光器だったという。投光器の白熱電球の熱が木屑に移り発火したものとされている。

大学生なら誰でも想像できてよいレベルの事故だ。白熱電球、しかも投光器。かなり熱くなることは想像に難くない。

けれどもそれを「やってしまった」という未熟な思考回路が、私には痛いほどわかった。

私自身も学生時代に、そのように作品を作って展示するという機会が何度かあったが、その展示物が命を奪う可能性など考えたこともなかった。振り返ればあれは危なかったな、と思う場面もある。危険性を頭のどこかで認識しつつも「なんとなく大丈夫」な気がしてしまう──複数人のグループによる作品なら尚更ありうることだ。

だからといって学生側を擁護するつもりはないが、ちょっとした気の緩みと判断ミスで意図せず幼い命を奪ってしまった彼らが、ひどく不憫に感じられた。彼らはこれから何十年も事件の重みを背負って生きていかねばならない。何かを作って世に発表するという、本来ならば明るくなりえた一場面が引き起こした事故。

奪われてしまった命だけでなく、彼ら学生にもまだ未来はある。

苦しさが、自分の事のように、重くのしかかった。

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その後、仕事で経験を積みながらも、私の脳裏には「神宮のジャングルジム火災」がこびりついて離れなかった。

「人の身体よりも大きな物を作る」という仕事の性質上、成果物が命を奪う可能性と常に隣り合わせで過ごしている。「自分の仕事が誰かの命を奪うかもしれない」という恐怖が募った末に「この仕事を辞めたい」と考えたことも一度や二度ではない。

しかし人間は愚かな(あるいは強かな)生き物である。次第に私は恐怖から上手に目を逸らせるようになり、仕事を続けた。

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事件から5年あまりが過ぎ、2022年の春が訪れる頃、私は子どもを出産した。

出産後、病室で起きた驚くべき心境の変化があった。それは「子どもを失う辛さを体感として想像できるようになった」ということだ。

“あの”ジャングルジムの火災を思い浮かべる時に、私の心を締め付けていたのは、どちらかといえば加害者である学生の苦悩だった。作ること、ミスをすること、そして命を奪うこと。この一連の流れが恐ろしいがために、ずっと忘れられなかった。

しかし親になった私は突然、被害者の男児とその親が経験した痛みに、身が悶えるほどの共感を抱くようになった。

上の「12時間後」という投稿に書いたように、それは理屈抜きの突然の感覚であった。本能なのかホルモンなのか、生物的な仕組みはわからないが、私はある日を境に突然「子どもを失うこと」を恐れるようになった。また「死にゆく子どもの苦しさ」と「子どもを失う親の辛さ」に心底共感するようになった。

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悲しい事故を起こした加害者である学生たち。そして、事故に巻き込まれてしまった小さな小さな命と家族。今は、どちらにもはっきりとした共感を覚える。

この事実に気づいたときに私は「もしかしたら、やさしくなるってこういうことなのかな」と思った。

年齢を重ねていく中でたくさんの人に出会い、たくさんの状況を経験し、楽しいことと幸せと喜びだけでなく、辛いことや失敗や悲しみも──いろいろな「自分」を通り過ぎていく。だからこそ私は、より多くの「他人」に自分を重ねられるようになるのかもしれない。

年齢を重ね、やさしくなるのだとすれば、
それは、より多くの人に共感できるようになるからかもしれない。

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幼い命が人的災害によって奪われる事故は、今でも後を立たない。

中学生の姪がニュースを見て言った。

「でもこの事件が教訓になって今後は同じような事故が防げるんなら、意味があるよね」

そう。その通りだ。
でも、そうじゃない。

その命は一つしかなく、彼らに「今後」などない。
失われた命は決して元通りにはならない。
「意味」などなくてもいいから、返してほしい命がある。

──この感覚の発見こそが、かえって、「私には共感できていない人がまだまだたくさんいるのだろう」と思わせる。

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