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「私は彼の心を研ぐ砥石だった。刺激剤だった」

■アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの事件簿』

私は彼の心を研ぐ砥石だった。刺激剤だった。彼は私を前において、考えることを口に出してしゃべりながら、思索をすすめるのが好きだった。
(P.245)


2020年1月に『緋色の研究』から読み始め、順を追って読み進めたシャーロック・ホームズシリーズ。ついに最後の一冊を読み終えてしまった(厳密には新潮文庫の場合『シャーロック・ホームズの叡智』が残っているが)。

長編を除くと、短編集では5冊目ということになる。ここまでくるともはやミステリーとか推理小説というよりも、「ホームズとワトスンの話を聞きたい!」というモチベーションで読んでしまっている。

だから読み終わった今は、喪失感でいっぱいだ。

『ポオ小説全集4』の解説を、いまだによく覚えている。

ポオはまず天才探偵デュパンを創造し、これに配するに、その解説者、引立役として、無名の「私」なる人物をもってした。後年ドイルはこれを模してホームズとワトスンを造り出し、この引立役を「ワトスン役」と通称することになったが、「ワトスン」は天才探偵には欠くべからざる相手役であり、天才探偵を主人公とする作風においては、現在でも「ワトスン」を廃止することが出来ない状態である。ポオがその最初において、いかに抜きさしならぬ構成を確立していたかを知るべきであろう。(P.422)

(ちなみにこの解説は江戸川乱歩が書いている。)

シャーロック・ホームズシリーズを読めば読むほど、ホームズの活躍ぶりよりもむしろ、ワトスンの存在が気になってくる。

ホームズというキャラクターは常に輝き続ける。頭脳明晰で、勇敢で、身のこなしもよく、人の扱いもうまい。時々大病や危険な目にあって復活されたりするもんだから、女心がグッと掴まれてしまう。

一方のワトスンはというと……ホームズのような魅力的な人物としては描かれていないように思う。

なぜなら、ホームズがコナン・ドイルにとっての「憧れの人」を具現化したような超カッコいい名探偵だとしたら、ワトスンは引立役として「一段劣った存在」でなければならないからだ。上の引用で乱歩が言っているように。


しかし──これはもはや、理屈抜きの感情かもしれない。

例えば、誰かに対する愛情の理由を説明しろと言われてもナンセンスなのと同じように、私は気づけばワトスンに(愛情とまではいかなくても)愛着を抱いてしまっていた。


実はこの『事件簿』に、ワトスンではなく「ホームズが書いた」という設定の短編が、2編収められている。

本来(?)ならばホームズの語りにワクワクドキドキするのだと思う。実際、少しテンションは上がった。しかし2回目のホームズ語りにはあまりテンションが上がらず、むしろ──正直に言ってしまえば、いつものワトスン語りのほうをより楽しむ自分がいた。

ホームズがカッコいいのは、ワトスンという「引立役」の目を通して語られるからである。

さらに、ワトスンがしばしば犯す失敗や的外れな推理があるからこそ、ホームズが際立つのである。

そして何より私は、「ワトスンに語りかけながら推理するホームズ」を見たいのである。


私は彼の心を研ぐ砥石だった。刺激剤だった。彼は私を前において、考えることを口に出してしゃべりながら、思索をすすめるのが好きだった。
(P.245)

このワトスンの言葉が胸に刺さった。

彼がこんなにも自らの役割を理解し、その場所に徹していることが、ホームズ&ワトスンというコンビの奇跡だったのだ。と、9冊読み終えてわかった。

いやいや、ホームズ&ワトスンなんて架空の存在だから。

うん。理解してはいるけれど、今となってはもう彼らの不在を信じることができない。


「僕は頭脳そのものだ。ほかの部分は付属物にすぎないのさ。だから頭だけは大切にしなきゃね」
(P.88)

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