群像劇の面白さ
■アガサ・クリスティー『ナイルに死す』
エルキュール・ポアロはひとり呟いた。
「男を愛している女と、女に愛させている男。さあて、どうかな?私も心配だ」(P.43)
巻末の解説にあるように、エキゾチックな土地を舞台とすることでマンネリ(自分にとっては二冊目なので実感はないけど)が回避され、ナイル川のクルーズという非日常感、エジプトの強い日差し、その中で立ち振る舞う美しい女性たちと日焼けした(であろう)陽気なポアロ……が効果的に描かれていた。
分厚い本の前半、ほぼ1/2近くまで事件が起こらない。動かすべきコマを一つずつ丁寧に説明する時間は普通ならもっと退屈なのだけど、逆にそこにこの本の醍醐味があるような気がした。
豪華客船の上で起こる事件となれば、必然的に登場人物はバラバラに寄せ集められることになる。しかし不思議と『スタイルズ荘の怪事件』よりも名前と顔がすんなり一致した。面白い群像劇を映画館で観ているような鮮やかさだった。
巷に出回る解説を読むと思考が固定されてしまう気がして、極力読まないようにしているのですが、どうやら台詞の「ダブル・ミーニング」にアガサ・クリスティの醍醐味があるらしい……。その意味は知識として知るのではなく、実感でわかりたいなぁ。
ポアロが若い男女の関係をひたすら憂う流れが良い。
ここで止めておけ、と。
「あそこにでている月をごらんになって。非常にはっきりみえるわ、そうでしょ?とても見事な月だわ。ところがひとたび太陽がでてくると、あの月は見えなくなってしまうんです」(P.132)
私は、推理するポアロよりも、人の心情に程良く距離を取りながらも介入するポアロに惹かれた。
アガサ・クリスティは感覚でなく頭脳で小説を書いている。ということがわかった気がする。いま読んでいるのがチャンドラーの『ロング・グッドバイ』なので、とりわけ対比されているのかもしれない。
チャンドラーを読んでから『ナイルに死す』を振り返ると、物語に無駄がなく、理性的に組み立てられている印象が強い。台詞にも風景の描写にも「過不足」というものがない。それは読書の心地よさに直結していると思う。作品としての良し悪しという意味ではない。
「あなたはおそろしく能率的すぎるわ。それに、正しいことをちゃんとやりすぎるもの」(P.28)
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