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数学という玩具

■加藤文元『物語 数学の歴史』

数学するという行為においては、直観の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはない。数学の進化とは、正しさの直観能力の進化である。それは人間の悟性が、より抽象的な世界の中に新たな正しさを見出すことである。そして数学における抽象化とは、対象やパターンに対する意図的な健忘を通して、人間の感性を洗練することに他ならない。 ー 34ページ


一つ前に読んだ岡潔『数学の歴史』に比べて、10倍ぐらい読みやすかった。ほとんどの人にはこちらをお勧めしたい。

あえて注意喚起するならば、この「歴史」は著者の主観で組み立てられている、ということだ。単純に数学の歴史を解説してほしいだけの人にとって、やや鬱陶しく感じられるかもしれないので、好みが分かれる。だから、歴史書ではなく「面白いノンフィクションの本」と思って読むといいかも。

実はその「主観による味付け」自体が、この本の根底に流れているテーマ(と、私が感じたもの)に沿っており、個人的にはなんともしっくりきている。

そのテーマ……と、私が感じたのは、以下のようなものだ。

「数学の歴史は部分を取り出してみれば、一人一人の数学者、一つ一つの証明・理論でしかない。

しかし現に存する〈数学〉のかたちは、単純にそれらを積み重ねてできた総体ではなく、数々のパラダイムシフトを経た無意識の産物である。無意識ではあるが、人間(数学者たち)の手がその都度加わって、形成されてきた。

これは言い換えると、今の〈数学〉は「絶対にこうならざるをえなかった」という必然的な状態でない、ということだ。」

(これは私の勝手なまとめであり、本文には一切書かれていませんのでご注意ください。)


数学という学問は、一般人から見れば、「疑いようのないもの」に思える。私も例に漏れずそう思っていた。数学は、なんというか「硬い」学問であり、ブレのようなものはないと信じていた。「証明」という言葉がそう感じさせるのかもしれない。

つい最近も「ABC予想」が日本人によって証明された、というニュースが飛び込んできた。

※ 胸の踊るニュースだが、比較的扱いが小さいような気がする。本書でも触れられていたが、日本における数学の地位は低い。日本人は実用的な学問を重視する──というか、学問の実用性を重視する傾向にある。

私は「ABC予想」が何なのかよく知らないので掘り下げないが、このように数学界ではたびたび、誰かが予想したものを他の誰かが証明したり、もしくは自分自身で何かを思いついて証明したりする。そのたびに数学が一歩前進!という感じだろうし、本書も基本的にはそのように、歴史を追っている。

しかし、実はこの数学の歴史全体を引いて見た時に、数学が今のような形をとっている必然性はない。それどころか、色んな人が思いついた予想を必死で証明したりする中で、色々と発見しちゃったりして、偶然に今の〈数学〉というまとまりが形づくられた──という印象を受ける。

言ってみれば、〈数学〉はまったく別の形態をとっていた可能性もあるのではないか。と私は思う。

昨日ミロのヴィーナスについて書いたが(以下)、ユークリッドは恣意的に『原論』をまとめている。人間が編纂する以上、恣意性を排除することはできない。一つ一つの部分にフォーカスすれば論理的に真っ当だとしても、ただ論理的なだけでは全体の「まとまり」は出来上がらない。全体をイメージする役割は直観力が担う。編纂するとか創作するとは、そういうことだと思う。

ユークリッドの幾何学について、本書では面白い表現がされている。ユークリッド幾何学を用いた証明は「定規とコンパスだけで証明するというルールの元で行うゲーム」なのだ、と。

数学者には、特に西洋の数学者にとっては、ルールの中でゲームを行っているという感覚が強いのではないか。何かの役に立つとか、自然科学の発展に寄与したいとか、お金が欲しいとか、それ以前の問題であり、あえて言えばただ楽しくてやっている人が多いと思う(だからこそ精神を病みやすいとも思う)。

そんな数学者たちは、人一倍負けん気が強いだろうし、問題を解決したいという情熱だけに突き動かされてゲームを続ける。

中にはガウスやリーマンのように、既存の価値観を疑うことによって大きな業績をあげる人もいるが、これとて別に「ゲームをしていない」わけではない。大きな業績を残したのはただ彼らが優れていたからであって、彼らも基本的には数学ゲームに夢中だったのだろう。と、私には思えてならない。

要するに何が言いたいかというと、数学者は個人としてみな大局を捉える能力(直観力)に優れ、その力によって問題を解決し、どんどん自然科学を発展させた。しかし、全体の〈数学〉を同様に大局的に捉えてコントロールした存在がいたのだろうか?ということだ。

私は、いなかったし、今もいないと思っている。(『暗号解読〈下〉』のレビューにも書いたことだ。)

これは、どんどん数学が高度になってきた現代でより顕著な気がする。何も数学に限らず、あらゆる自然科学の分野で同じである。


かつては哲学者も法学者も数学者も天文学者も政治学者も、そんなに区別がなかった。頭のいい人が色んなことを考えて、色々口を出した。アリストテレスもそんな存在だっただろう。

しかし、人間は上書きに上書きを重ねる生き物であるから、どんどん上を上を目指さないと気がすまない。結果として全ての分野が複雑になった。複雑になるということは難しくなるということで、時間がかかるということで、分業しなければならないということだ。複雑化のスピードに比例して人間が進化したわけではないのだから。

だから今は、かつてのギリシャにいたような「全体を見る人」が不足している。


数学ゲームはなるほど面白いだろうと思う。しかし私のような素人にとって、正直に言うと後半4章ぐらいは存在意義がわからなかった。非ユークリッド幾何学も、ポアンカレも、(数学ではないが)相対性理論も量子力学も、その存在意義が私にはまだほとんど理解できていない。「面白いな」としか思えない。

この本の最初に書かれているように、

数えるという具体的な行為から数という抽象概念へ飛翔することは、間違いなく非常に優れた抽象能力の所産である。牛が2頭いることと2日間という時間の長さが、どちらも共通の「2」という概念に抽象できるというわけだ。冷静になって考えてみれば、実に驚くべきことである。 ー 2ページ
実際の商品が何であるかといったことは完全に忘れ去り、その個数や値段という、非常に限られた属性のみを問題とすること、このような、言わば「意図的な健忘」が、抽象化の裏には必ずある。そして、この意図的ということに高い精神活動の一端が垣間見えるわけだ。 ー 4ページ

このようなシンプルな「数」の話だけでも充分に深く、考える価値があるだろう。今のように過度に数学を掘り下げるのは文字通り「ゲーム」に見えてしまう。


しかし一方で、このまさに私が文字を入力しているコンピュータは、高度な数学なくして決して成立しないのである。

私には、スマートフォンなしには存在しえない友人がたくさんいるのである。

果たして人類はどこに向かおうとしているのか、どこに向かうべきなのか?

こんなに大事なことを誰もわかっていない──という恐ろしさを常に懐きながら、しかし私自身、この玩具のような〈数学〉に魅了されやまない一人であることも隠しようがない。

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