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陳腐かつ高貴な反復

この前暑くなったので夜の散歩を再開しようかなーと思ってたら、急にまた寒くなっちまった。。しかも、いつも外出してるであろう時間に家にいることが増えたからなんか精神的に少しきつい。まさしく日常習慣が狂う怖さ...

そんな些細な習慣や無意識のうちの慣れって
無限に生成され繰り返されているのだろう。

飯を食し、夜になれば睡る生命的活動の反復。
怠惰なままに身体を重ね合わせる欲望の反復。
生命的活動を保障するための社会的反復(労働)。

この世界は、てか人はこれらの反復によって形成されていて良くも悪くも反復なしには生きられない。逆を言えば、この世界に存在するすべての生き物はいつかは命を落とすし、死せばそれらの反復を繰り返すことはない。

筋肉の微かな動きや細胞分裂でさえも...

まぁ、長い時間を全体的に俯瞰するとすれば子が子を産み血は繋がっていく繁殖という反復に囚われているのだろうが。。
もちろん生物はこの無限の生成の流れから抜け出して客観的に俯瞰することはできないため私たちがそれらの反復を実際に経験することはない。

つまり、これらの当たり前のようで陳腐だと思われる反復は今ここに、いやこの世界に生きていることへの代えがたい証明なのだ。
まさに生物を生物たらしめているのである。


話は変わるが、、
上記以外にも、"可能性は反復に正比例する確立の法則"ともあるように、繰り返し何かを行うことで成功の確率を上げるという種類の反復もある。

もちろん、"数をこなす"というようにさまざまな経験や失敗を積み重ねることで成長していくという反復もあるし、ただ何も考えず繰り返すだけで成功・結果を掴み取るものも存在する。
(携帯アプリでのリセマラガチャなど..)

まぁ前者にしても後者にしてもそれなりの努力や耐久力が必要なので自分は苦手なんだよな。。


また話を戻すとする


もしも、太陽が昇らない日が訪れると、夏が来ない年が訪れると、1日12時間の日が突然来たとするとどうだろうか。当たり前のように繰り返してきた日常が途端に経験では語れないものと化してしまう。今まで培ってきたわれわれの能力、経験が死してしまう。

日常や習慣がいつ崩れていくのかという恐怖、
美味い食事や幸せな睡眠が明日唐突に姿を消してしまうのではないかという不安。
死神が常に後ろにピッタリと纏わりついていて、明日ぽっくりと死んでしまうのではないかと。

"三日坊主"という言葉があるように、何かを習慣化するのはめちゃんこ難しい。だが、今まさに安定して見えている習慣に限って、いついかなる時でもいとも残酷に切り離されてしまうのだ。世の中は残酷だ... だからこそ"三日坊主"なんて言葉は悪い意味のみを持っているのではなく、いろんな経験や事象に触れることができる機会でもある。

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