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善意という諸悪の根源

本格的に寒くなってきたぜ。寒すぎて家から出たくなさすぎるので今日も気ままに書いていく。
最近は暗いニュースばかりだが悪と同じほど善って意外に怖えなと思ったりしている。
この世界には白があるからこそ黒が存在するように、善があるからこそ悪もあるのではないだろうか(逆も然り)。まるで反定立のように相反する事象、主張があるからこそ世界は成り立ってるというか両者はいわゆる紙一重なのかなとも思っている。

四季が移り変わりゆくように善は未来永劫に善ではないし、いつだって悪になり得る可能性を持っている。いや、人は皆もともと自らの悪を善という仮面で覆い隠してそこに何もないように繕い、嘲笑しているのではないか。

例えば、続けて入店する人のためにドアを開け押さえておく場面。電車内で年配の方に席を譲る場面。車列で他を譲る場面。etc...

それらは無論、"思いやり"という言葉がこの世界線で存在するように世の中で蔓延すべきであるし、道徳的にも欠かせないことであるのかもしれない。

しかし、そういった行為が現実に顕在化していることにより、ほんの少しでもエゴイスティックでありモラルに欠けていると、唐突に悪へと転じてしまう。善意が諸悪を産みだし、法でも何でもない制約に縛り付けられる始末。いわゆる"暗黙の了解"というやつなのだろう...

高次の快楽の為に善を尽くし、悪を排除し忌み嫌うそのような文化。善か悪か、正義か不正義か二元論でしか語り合うことのできない世の中。
完璧な存在ではない(何かしらの欠点がある)からこそ人は人であり続け、人というひとつの形を成しているのではないだろうか。

なにが正解かわからない(正解がひとつではない)この世界線で周りの目を気にして善を施しながら生きるのはすげえ大変だし、ひたすら自らの悪を批難されながら生きることもただただ耐え難い。ましてや皆が持ってるであろう耽溺(酒やギャンブルといったものから、夜中に暴食したりアプリ,ゲームにハマってしまうあれ)を毎回善悪で仕分けられ咎められるのはきつい...

話がかなり逸れてしまった、、

タイトルに帰着するが、善意というのは諸悪を産み出すひとつのやり口であり避けられない仕様になっている。善が「あいつは悪だ」と言えば途端に彼等の信者は悪を排除しようと、俺らは正義なのだから何をしてもいいのだと躍起になる。つまりは悪意をそのままの姿で振り下ろすより、善意という名で覆い隠した刃を振り下ろす方が物騒な気がしている。尊敬してる人が言ってることは信じるし気に入らない人が言ってることは否定したがる人も世の中にはいるだろう。1番怖いのは性格が悪い人でも人望が薄い人でもなく、優しさを振り撒きみなから信頼されている人なのではないか。ここまでくるともはや洗脳に近いものになってくるのだが..
諸悪による善も、善による諸悪もなかなか怖い。












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