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クソゲー・だめ映画を笑うように短歌を笑わないのとちんちんが聞く。

 ふと、短歌の界隈の人って、つまらない映画を貶すようにつまらない短歌を扱って、笑ったりしないのだなあと思った。
 どういうことかと言うと、映画って特につまらないものを「見る拷問」「精神と時の部屋」「デビルマン」「令和のデビルマン」などと貶して笑い合うこともあり、ゲームも「問題点以外見当たらないという完成度」「クソ過ぎた為に伝説」「超クソゲー」「デス様」などとか言って楽しむことがある。貶し文化というのか。
 短歌って……いまのところ、「外の人」として見ているぶんには、そうした罵倒面白がりに出くわしていない。

 というか、何でつまらない映画や、クソゲーの話をすると楽しいんだろう。つまらない小説を笑うっていうのはあんまりない気がする。つまらない漫画……も、あんまりないのか。や、設定の矛盾を笑ったりするのはあるかもだけど、クソゲーやつまらない映画を笑うように短歌を笑わないのはなんでだ。

 貶して面白いジャンル、と言うものがあるのかなあ。ちょっといろいろ考えたい。例えば美術作品とかはどうか。
 山田五郎さんの西洋絵画解説動画を見てたら、アンリ・ルソーに対してはそういう面白がりの匂いを感じた。

 やーでもルソーの場合はちょっと違うのかなあ。ルソー、作品によってはものすごく高く評価されてたりするし、映画のデビルマンを笑うような感じではないか。でも根っこの面白がりかたって似てると思うんだけどなあ。

 僕はどちらかと言えばクソゲー・ダメ映画を笑う人ではある。『超クソゲー』というゲームの本もすごく楽しんだクチだったし、つい最近も『花束のような恋をした』を、noteでめちゃくちゃ罵倒して楽しんでしまったし。

 短歌や小説を、クソゲーのように笑わない問題。なんかあるんじゃないか。映画やゲームは複数人で分業で作られているから、貶してもそんなに罪悪感がないけど、短歌は個人が主体的にで作られているものだから、人格攻撃になっちゃって、いじめみたいになって盛り上がりにくい、とかかなあ ……。

 でもそしたら、芸人さんいじり……コウメ太夫に向けられるような笑いって、人格攻撃になってないのか? あれ、生き方も笑っている気がする……。コウメ太夫への面白がりは完全に貶し面白がりだとおもうけど、コウメ太夫なら人権がないから、ひたすら貶し笑ってもOKなのか?

 それとも、僕はまだ短歌の外側の人だから知らないだけで、短歌の中の人になったら、ああいう感じ(クソゲーダメ映画コウメ太夫)でいじられ、笑われ、ある意味愛される歌人や短歌もあるんだろうか。
 それとも、絵画、映画、ゲーム、コウメ太夫と、短歌は何か一線を画すものがあるのか。

 「映画」「ゲーム」「芸人」は、明確にプロの技術が前提になっている、という点があるんじゃないか。
 その前提になっている「基礎的なプロ」の部分が損なわれているのにプロの現場としてのさばっていると、そこに笑いが発生するのではないか。
 ルソーも、山田五郎に基礎的な技術のなさを笑われている。ただルソーの場合はそれ以上の色彩感覚や絵画に対する情熱、天然な人が出しうる凄みみたいなところを評価されているのかも。
 だから、プロじゃない。プロじゃないけど、面白い。そういう笑いなのかもしれない。

 で、「短歌」、さらには「小説」か。これは「プロの技術」が可視化されにくい――「誰でも出来らい!」と思われているところがあるのではないか。
 だから、基礎が足りてない部分を指摘しずらい。共感しにくい。笑えない。

『春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山』って何スカww! めっちゃ草やん、なにこの初句の使い方。「春過ぎて夏来る」って、夏になったこと言いたいだけなら「夏来にけらし」だけで伝わるんだから初句が丸々無駄やん! 「春過ぎて夏」って言葉のチョイス、ないわ~、「春過ぎて夏」っすよ。そこまでして時間経過示したいテーマかなって、後半よっぽどその前振り効かさなアカンやんこんな前振り。それで「白い衣を山に干してます」って、あの前振フリしといてただの風景描写wwww!? 面としての描写でしょ? 時間の移り変わりをしめさないただのシーン? それだけ? 映像として動きのない「白い衣干している山」を歌うって何? たぶんだけど、どうせ白い衣と緑の夏山の色彩を言いたいんだと思うんだ。だったら初句でもっとそのあたりを喚起させるワードチョイスしなさいよ! センスないわー。この作者、女の天皇っつって珍しいからみんなから持ち上げられてんですかね? これでプロの歌人差し置いて百人一首にエントリーされて恥ずかしくないの? 掛言葉も縁語もない、素人丸出し、春が来て―夏が来てーって、どちらの幼稚園児? 草、草ぁ、大草原回避できずぅ、まじ卍、マジ卍ファイヤー焼け焼けぇ~ただの時間経過示しました短歌。マジで草~屁~ぷりケツ~屁~権力者ごり押し短歌~ 屁ぇ~……。

 ……無理してけなし笑ってみたけど全然……楽しくない。楽しくないよ。
 なんでだろうか……。貶そうとした相手が持統天皇だからだろうか。蝉丸や猿丸太夫を笑えばよかっただろうか。
 というより、短歌にかかわる人を笑うと、かわいそうな感じと言うか……。

 短歌って、弱いものなのだろうか。

 弱いものを叩いても、あんまり笑いにはならない。それは障碍を持ってる人に強めに蹴ったり、痴呆になってしまった老人を落とし穴にはめるとか、難民のタライ落とすとかとか……。多分笑えない。
 それらは「この世界の主」の視界に入らない存在だから、対応が「外」に対する物になる。だから気を遣った対応になってしまい、貶し笑いにはならない。

 笑えるのは「ちょうどいい、内側にいる弱者」だ。
 貶しても反撃してこない。でも、すぐには死なない。そしてみんなが「いじめていい」となんとなく認識してしまった人――その場を制している権力者というか、覇権(文化的ヘゲモニー)のある人が「あいつはだめだ」と認定(するような空気)になったら、貶して楽しいものになるんじゃないだろうか。

 そう考えると、短歌は覇権のある人に、「あいつはだめだ」の視界にも入らないから、貶し笑いに今一つ盛り上がりに欠けるんじゃないかなと思った。やっぱり、世界の外に短歌はあるんじゃないかな。

 そう考えると、映画やゲームは、「世界の内側」に入れたんだと思った。特にゲームなんて、1983年のファミコン誕生を「元年」と考えれば、生まれて40年くらいだ。
 40年で世界の中に入れたのに、2000年の短歌は内側に入り切れてないように感じる。2000年経つのに、短歌のプロの仕事や技術を、ピンとこられていない。お笑い芸人は最近、明確にプロとして認知されてきたというのに。

 あくまで、内側に入らないようにしているのが短歌だとすれば、なんでそのポジションにいようとするんだろうか。
 平安時代のように、短歌が文化の真ん中になりたがらないのは、なんでなんだぜ。

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