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ちんちん短歌商業利用計画・その2

 前回はちんちん短歌を商業利用しようとして、賞に出すことを考え、100首の応募に応じようとちんちん短歌を100首に選定したところ、なーんかぼんやりしてしまったという事を書きました。

 何を思ったかと言うと、「ちんちん短歌をまとめて並べているはずが、なんだか小説というか、散文みたくなってしまったなあ」という実感である。

「ええやんええやん! 散文でもええやん!」と君はいうかもしれないが、なんかこう……。わざわざちんちんを31文字にしてるのに、並べてストーリーみたいなのができると、冷めるというか。……わかりやすいというか。

「なんでなん、なんでなん、なんで分かりやすいと嫌なん、あ?」と君はいうかもしれないが、僕みたいな人は、ちんちんは、わかられると、殺されるんですよ。

 何がどう、わかりやすくなったかと言うと、100、並べてみよう思たときにですね、以下の感じで並べたんです。

 1ページ10首、ページの頭と終わりに、強めの短歌を配置するという工夫をしながら、さらにそこに起承転結をつけて配置しました。
 起パートでは濃度が浅めの、分かりやすいもの。そして初句の「ちんちん」ラッシュでビビらせ、ひるませる。
 承パートではちんちんを通じた四季と、誰かとセックスしようとして挫折したところを描いたような短歌たち。
 転パートで本当にセックスしたい相手と出会いを描いたものや、レイプ短歌を添えて。
 結パートで破局と、ちんちんを通じた死をテーマに配置。終局へ。

 こんな感じで選んだ短歌の配置を工夫をしていたら……「男が日々ちんちんの事を思い春夏秋冬を過ごすうちに、誰かとセックスをしようとしたが破局。その後本当にセックスしたい相手が現れ、レイプしてしまい破局し、自身にも死が迫る」みたいな、物語ができてしまった。

 一つ一つの短歌の制作日はまったく別々でモチーフも全然違うのに、並べているうちにこう、似たようなものやシチュエーションで固めるようになったらこうなってしまったのだ。

 なんか気持ち悪いんだよなあ。や、すごく見やすくなってるんだけど。

 ちょっと前に、お笑い芸人さんが笑いのネタをレクチャーする動画で「まずネタを成立させてください。ネタが成立してるというのは、お客さんに少しでも『ここ、どういう意味なんだろう』と思わせないこと。」と語っていたそうな。

 これを見て、アッと思ったのは、僕がやりたかったのは、ひたすら成立しない、成立させない、誰も笑わせたくない、伝えたくない。でも、そこにある。という事だったんだなあと。
 僕は、笑いは好きだけど、芸人さんにはなりたくなかった。笑いは好きだけど、お客さんを笑わせたいとは絶対に思わない。むしろ、お客さんをどこか、憎む気持ちがある。
 お客さんを不安にさせたい。
 せめて、「どういう意味なんだろう」と思わせたい。「どういうつもりなんだろう。どういう気持ちでいるんだろう」と思わせたい。他人を、若干不愉快な思いにもさせたいという気持ちがある。

 逆に僕が、他人の作品や生きざまを見たとき、そうした不合理さを見ると、ものすごく安心するのだった。成立しないもの、分かりがたいもの、若干、気持ち悪く、ちょっとだけ不快なもの。

そうした「成立しないもの」は、まるで僕みたいだからだ。
それが、きちんと「成立」しやがって。僕みたいなもんが。
なんのつもりだ? あ? そこまでして人に、読まれたいんか。わかられたいんか?

 すこしだけ不快にさせて、他人をよくわからない気持ちにさせる。
 そんな奴が、教室の隅にいた。
 それは教室の隅で、自由帳にオリジナルの一人ゲームを延々とやっているやつだった。

 彼は「ぼうけん」と名付けられた、自分で自由に鉛筆でストーリーをつけていくゲームをしていた。地図を書き道を書き、その道を鉛筆で行く。道中消しゴムや指で作った敵と戦い、それを心の中で実況したり、時によだれをたらして敵を濡れ倒したり、上手く使えない左手に鉛筆を持ち換えて「毒でフラフラになっている」状態を再現したり、する。そんな遊びを、2時間目と3時間目の間の行間休みに、ドッヂボールもしないで、ずっとやっている。ずーっとやっている。やっていたら、蹴られた。

「うるさいんだよ」

 僕はいつの間にか声を出していたらしい。
 それが、休み時間、ドッヂボールから帰ってきた足の速いグループの人たちからすると、不愉快で仕方なかったようだ。

「ぼうけん」は、成立していない。
 ゲームとしても、遊びとしても。冒険そのものとしても。だって遊んでいる自分は神でありプレイヤーって、それじゃ自分の裁量で何でもありじゃん。神なのにプレーヤーやって勝手に危機に陥ったり死んだりするわけで、こんなの自分以外、何も面白いはずがない。
 今思うとそうだ。
 そうした不合理なものをやっているという事は、他人から見れば不快に映るのだろうなと思う。しかも、声も出てるし。休み時間とはいえ。休み時間だって、空気を読まないと。
 蹴られて当然だっただろうな。たとえ休み時間であっても、一人で意味不明な声を出している人間は、人を不快な気持ちにさせてしまうよなあ。こっちの不注意だ。幼かったとはいえ小1だった。もっとよく考えて行動すべきだ。

 その「ぼうけん」と、今の僕がやっている、短歌――「ちんちん短歌」と、ほとんど同じものだと思っている。

 他人を「とても」不快にするものは僕だっていやだ。

 授業中大声を出して先生に迷惑をかけたり、人を鼻血が出るまで殴ったり、ガラス窓に石をわざとぶつけるよう仕向けられるのは本当に嫌だったから、それは拒否した。それは僕にとってとても不快だったから。
 それは、犯罪であり、暴力だ。僕は断固、そうしたものを憎む。一線を引く。

 でも、僕を「若干」不快にさせるものは、むしろ好きだ。
 犯罪未満、暴力未満、社会的通念からは外れているが、反社会的行為とは言えない何物か――。僕はそれを、望んでやっていたかもしれない。
 たとえば教室で飼われている金魚の水槽の水を飲まされるとか、僕のランドセルを踏み台昇降運動の台に使われるとか、カレーのついた皿で顔を拭かれるとかは、若干不快で、むしろ僕にふさわしい。小学校の時、僕は望んでそういう事をしていた気がする。

 それは、文学だと思うからだ。金魚水を飲むとか、ランドセルを踏まれるとかは。顔面カレーをされることは。
 不合理さを内包しつつ、そのことで、他者の感情が動くものは、やはり、文学だろう、と。

 僕は小学校の時から、文学というものを楽しんでいたに違いない。顔面にカレーをつけられて「カレーパンマン!」と昼休み叫んでは、笑われていた。
「文学」。
 僕もみんなの笑顔を見れて楽しかった。そして、よくわからない。何がカレーパンマンなんだよ。意味が分かんない。気持ち悪いよ。

 短歌もそういうことだと思う。

 わざわざ言葉を57577という変態的な音の響きを利用した形にする、というのは、やはり不合理で、意味が分からない。言いたいことがあるなら、わざわざ31文字にする必要はどこにあるのか。そもそも、事務的でない事を知らせるために、言葉を使って表現する意味が分からない。不合理だ。そんな無意味なもの、無駄なもの、意味不明で気持ち悪い、思わず漏れ出ている気持ち悪い声なんて、クラスの中で足の速いグループの人は絶対に見向きもしないし、嫌悪すらするだろう。

 でも楽しい。面白い。作っていて若干不愉快で、いらいらする。でも楽しい。これは、楽しいんだよ。

 それが散文になるという事はどういうことか。

 クラスの中で足はやいグループの人たちに、完全に気持ちをわかられようと、自分のやっている事を本来の形を変えてでもわかられようとしてないか。裏切り者になっちゃいないか。それは、媚びだ。敗北だ。孤独に負けた無様な敗走だ。

 そしてそういう時、クラスの中で足はやいグループの人たちは、敗者に対してなお一層の軽蔑と不快のまなざしを向ける。彼らは僕ごときの存在の気持ちが分かりたくもないし、共感もできるけどしたくないし、僕らの気持ちを分かったら、さらに攻撃的になる。
 ナチュラルに、殺そうとしてくる。や、殺すという意識もないのだろうな、多分。殺すことに罪悪感を感じないくらい潰してくるだろう。我々のような存在はそれくらい、矮小で不快なのだろうと思う。

 だから気持ちなど一切わかられたらダメなのだ。

 あいつらに理解可能なわかられ方をしたら、あいつらの意識は絶対にかわらない。現状のまま、苦しく不愉快な状態は何も変わらない。革命が起きない。
 変えないと。文学で、少しだけ不快にさせて、少しだけ心のどこかに居座って、飲み込めないものになって、まとわりつかないと。不愉快かもしれませんが、ここにいます、と。そうやって、少しずつあいつらを、弱らせ、苦しませて、変えていかないと。カレーのついた顔でカレーパンマンと叫び、笑って、おどけて、教室の中でちんちんをだして、必死に笑っていかないと。
 あいつらに分かりやすく届いて快いものは、消費されてしまう。
 消費されがたい、気持ち悪さを。俺を。ただそこに、消化させないまま、いさせないと。

 だから、ちんちん短歌を並べて散文的になったのを見て、「あー、これは、分かられようとしてるなあ」と思い、哀しくなってしまったのだ。ちんちん短歌という、もう何やってるかわからないようなものが、ものすごく、ベタに、「あれやな、コミュニケーション能力のない男性がな、セックスを通じて、なんかいろいろ、ぶわーってなって、傷ついたり傷つけたりしている情緒なんやねんな? それが、ちんちん短歌やねんな?」と、まるで千原ジュニアにもわかるような、すべらない話として未知の観客にも伝わるような、分かりやすく伝えやすくして笑うような、「ぶわーっ!」て言われるような、すごく簡単なわかられるもの、共感されるものになってしまう。

 だめだ。やめよう。こんなんじゃだめだ。何もかもダメだ。ちんちん短歌は、ちんちん短歌として、ちゃんとちんちんを、見せなきゃ。ちゃんと、パンツを脱いで、見せなきゃ。

「それでは売れないですよ」と君はいうかもしれない。

「金銭に変えようとしているのですから、分かられないとだめですよ」と。

「だから、せめて、パンツをはきなさい」と。

 だったら、やんない。家賃、払わない。食べない。日本は崩壊する。
 
 そしてぶーたれながら、自由帳を開く。「……ちんちんがぁ」と、小さく、つぶやきだし、あのころのあの子は、ふたたび地図を作り始めた。

 絶対、もっといい方法があるはずなんだよ。もっといいやりかたが。

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 歌人の枡野浩一さんの動画を見た。

 タイトルに『新人短歌必勝法!』 と補足してあって、そのタイトルにも惹かれたところがあり、視聴したのだった。
 で、その必勝法のネタバレすると、「一つの連作を10年かけて推敲する」というもの。詳しくは動画をみてください。真ん中位にその話があります。

 「10年推敲する」
 この言葉に、大いに励まされたのだった。
 ちんちん短歌を始めたのは2016年。だからあと、4年、推敲し続ければ、短歌の新人賞くらい、ちんちん短歌で絶対にとれる。
 プロの歌人の方がそう言っているのだから間違いない。
 なんだ、あとたった4年じゃん! 

 ちんちん短歌の商業利用化は、4年後でいいかもしれない。
 心配しなくても、あと4年で日本はきっと崩壊する。経済は破綻する。こんな社会、うまくいくはずないじゃん。
 その時、ちんちん短歌をやり続けていれば、きっとなんか、なんか、なんか、なんかになんか、なんかなるだろう。

 だから、そのときがくるまでに、がんばろう。
 がんばろうよ。
 がんばって、わかられないように、がんばろうよ。
 たった、10年なんだから。4年なんだから。小学校6年間に比べれば、全然短い。

 そしてその時、賞を取って、お金を手に入れたら、今、狂ったように好きな女の子がいるので、その人にお金を全額プレゼントに変えて、その人が今結婚前提で付き合っている彼氏にバレないように、こっそりと届けたいなあと、あとその人と彼氏にバレないよう、箱根旅行に行きたいなあと思っています。

 最近ずっと、箱根の宿検索ばかりしています。

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