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忘れられない彼女のこと。

大学生の時、家庭教師のアルバイトをしていた。当時幾つかの「家庭教師センター」なるところに登録していて、紹介してもらった方のお家に勉強を教えに行っていた。1回2時間だけど時給が良く、短時間の割には稼げるいいバイトだった。大学の授業や課題も多かったので忙しい学生には有難い。今はネットの時代だから個人でも容易に探せると思うけれど、その頃は携帯電話やインターネットもなかったので、まずは「センター」に直接行って登録し仕事を紹介してもらっていた。

ある日、センターから電話がかかってきた。紹介したい人がいるけれどちょっと問題がある子で・・・。と躊躇して口ごもっているのが電話口の向こうから伝わってくる。やっぱり電話って相手の話かたや間や声のトーンでなんとなく状況を察することができるのが利点かもしれない。担当者が言うには、その子は現在中学3年生で普通高校ではなく看護の専門学校への進学を希望している。でも、入学に際して試験があるからそのための勉強をしたい。ただ、あまりにもお勉強ができな過ぎて今までに付いた何人かの先生が「お手上げ」と言って辞退してしまい、誰も見てくれる先生がつかない状態で困っているとのこと。よくよく聞いてみると私の家から徒歩で行けるほど近い距離だったので、一旦引き受けてみることにした。

初日、当日。住所を頼りに訪ねると、古い引き戸の玄関のお家。ノックすると可愛い色白の中学生の女の子が笑顔で迎えてくれた。「こんにちは。家庭教師センターから来ました。曽根瑞穂です。」挨拶をするとそのまま畳のお部屋に通された。ちゃぶ台のある居間。。サザエさんのお家のような、というと想像しやすいだろうか?でも、あまり日当たりが良くないのでちょっと暗めのサザエさん家の食卓。

ちゃぶ台に向かい合わせに座る。「一人?」「はい。」初めてなのでちょっと話をする。お母さまは看護師として働いているとのこと。なので、彼女も中学を卒業したら看護の専門学校に行って看護師になりたいということらしい。母子家庭のよう。話をしながらふと視線を落とすと、彼女の手首や腕には根性焼きの跡が幾つかある。きっと悪い仲間とつるんだりしたこともあるのだろう。でも、彼女と一対一で話しているとまったくそんなことは感じさせないくらい明るくていい子だし、ちゃんと話もしてくれる。
ウォーミングアップが終わったところで、現在の彼女の学力を知るために少し問題を解いたりしてもらった。

ここで私はセンターの人から電話で言われたことの意味を知ることになる。
彼女は分数の計算ができなかった。やり方がわからないと言った。中学三年生。受験生。本来分数は小学生で学ぶはずのところだ。いくら専門学校の試験は高校受験より難しくないとは言え、小学生、及び中学生で学ぶことはできていないとダメなのではないか?あまりにも時間が足りなすぎる。他の先生たちが「お手上げ」した気持ちもわかる。だって今分数から始めたとして試験までにどのくらいまで追いつけるか、果たして看護学校合格まで持っていけるのか不安になるのは当然だ。いや、不安しかない。でも、分数をすっとばして進むわけにいかない。その日は覚悟を決めて「分数」の計算のやりについて説明した。

勉強の楽しさは知らなかったことを知る喜びと解らなかったことが分かるようになる嬉しさだ。最初は首をかしげていた彼女も私の説明を聞いて問題を解いていくうちに少しずつ理解してくれるようになった。試験の日までにどこまで進めるかわからないけれど、とにかく順番に、できるところまでやるしかないと思った。

あっという間に2時間が経った。今日やったことを忘れないために次回までに少し課題を与えて帰る支度をした。玄関で靴を履こうとした時、奥のふすまが開いて女の人が出てきた。泣いていた。誰もいないと思っていた家の奥から人がでてきたこと自体にも驚いたし泣きながら出てきたから更にびっくりした。彼女のお母さんだった。2時間ずっとふすまの陰で授業の様子を聞いていたのだろう。「ありがとうございます。ありがとうございます。」言いながら、まだ泣いていた。そして帰りかけた私の手にティッシュペーパーをひとつ握らせた。中には、小さく折りたたんだ一万円札が入っていた。私が彼女を見捨てなかったことへの感謝の気持ちとは言え、一万円は大金だ。

そのまま家を出る形になったので、帰る道すがら色々なことを反芻した。センターの担当者からの電話。今日初めて会った素直な彼女。そして最後に衝撃的な登場をしたお母さん。今まで何人もの「家庭教師」が匙をなげ誰も担当がつかなかったという事実。確かに私だって残された時間で彼女をどれだけ成長させられるかなんてわからないし自信もない。でも、できるところまでやるしか道はない。引き受ける旨をセンターに連絡し無事に私が教えることになった。その後私が行っていた時はお母さんはいなかった。試験の直前まで通って教えた。無事に看護師の専門学校には合格したらしい。彼女は今でも看護師として働いているのだろうか?入院したり、病院に通うことが多くなった今、時折彼女のことを思い出す。

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