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隣の芝なんか見たくない

先日に引き続き、今日も不登校の話をしたいと思います。

改めてお話ししますが、我が家には中学生二年生の不登校の娘がいます。
小学5年生になる頃から、新型ウィルスの影響で隔日登校がはじまり、そこから少しずつ学校に行かない日が増えていき、中学一年生の途中から本格的に学校に行かなくなり、約1年半くらい経ったと思います。

最初は学校に行けないことを親として悩んでいたのですが、結論から言うと今は学校に行かない選択肢を持つ娘に対して肯定することはできているんです。

では何故、前回の投稿のように、昨年私がしんどく辛い一年だったかと言うと、不登校を弱者と考えている人たちからの目線が辛かったから、なのですね。


2023年の年末に、日本の不登校は過去最大の人数になったとニュースになりました。それは震災の影響もあれば、SNSが発達した影響、そして精神的なものや成長の発達的なものもあるかもしれません。理由は何にせよ、沢山の不登校の子ども達が現状いるのは確かなのです。

だけど、不登校は問題だと一括りにされがちです。

私は娘が不登校になった時、ほとんどのママ友に、「また学校に行けるようになるといいね」と言われました。

そして親や義両親には、「何が原因なのかな? まさか不登校になるとは思わなかった!」と言われました。

さらに学校の担任には、「娘さんは不登校になるようなタイプではないから勿体ない。何か排除できる原因があるのなら取り除きますので。」と言われたんです。

もちろんこれらの声かけは、悪気はないことはわかっているんです。でも私にとって、そしてきっと娘にとって、悪気がないけれど言われたら辛い言葉。

なぜならこれらの言葉には理想と期待が含まれているから。


「不登校にもそりゃなるよね!」
「優しいもんね!頑張っていたもんね!」
「人間、休みたい日もあるよね?休もうね。」
「あなたの人生だもの。あなたのペースで進んでいこうね♪」


私は本当は娘にこう言ってあげたいのだ。そして、言い続けてあげたかったのだ。

だけど、私もふとママ友や親や先生と話すことで、一気に弱者の母に戻される。

学校に来れるために頑張りましょう


そう言われるみたいで辛かったのだ。そして、そう思う度に、私も学校に行ってくれたらなぁ…という気持ちに引きづられてしまう。


別に強がりではなく素直に本心では、学校に行けて、部活も頑張って、塾にもちゃんと行って、成績がどんどん良くなる。そんなことを娘に今まで望んでいなかった。

羨ましいと思っていないはずの隣の芝生とやらに、青く見える錯覚を起こし、今まで何度娘を責めてしまったのか。それがとても悔しくてしんどかったのだ。

人は誰もが完璧じゃない。
歩み方も歩む速度も、十人十色なのに。

周りと同じように出来なくとも生きているだけで意味がある。
だけど、人はわかりやすい幸せを追い求める生き物だ。そして根拠のない『幸せ』を信じてしまう。

もちろん、学校に行って、毎日勉強も部活も頑張っている子たちを批判する気もなければ、そちらが悪いとも思わない。

だけど全てのことには必ず光と影もあるように、不登校にもいいことはあるのだ。それを今ようやくわかるようになった今、まずは私が強くなり変わることからはじめようと決意したんです!

娘には周りをよく観る観察力と、優しく気を遣い空気を読める心配りができる素敵なところがある。親として娘にそれを伝え続けてあげたい気持ちがある。

だから私はこれからそんな娘をちゃんと応援できるように、ここに日々の戦いの記録を書き記して行こうと思っています。


𝓉ℴ 𝒷ℯ 𝒸ℴ𝓃𝓉𝒾𝓃𝓊ℯ𝒹

ということで、本日も最後までお読みいただきありがとうございます。

Tina🐨

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