地域研究は学問か?

 これまで「私と東南アジアの出会い」というお題でノートを書いてきたが, 東南アジアと出会うまでの前置きが長くなりすぎて, 収集がつかなくなりつつある. 息抜きにでもなるかなと思って始めたことが, 結果として精神に負荷をかけることになってしまっている. 本末転倒だ. 誰の命令で書いている訳でもないのだから, 定期的に思いつきで文章を書くことにする. みなさんも外出自粛で暇だと思うので, 「寛容と忍耐」の精神で駄文にお付き合いください.

 初めての投稿で私の大学での専攻は地域研究と書いた. 少なくとも私の所属している集団では, 初対面の学生同士が会うと自分がどんな勉強をしているのかを手短に言うのが一般的なのだが, 「大学での専攻は地域研究です」と言うと, 隣接する学問領域に触れたことのない方にはなかなかすんなりと理解してもらえない.「地域活性化とか農村の勉強ですか?」と言われることもある. こういった反応は, 日本人に限らず外国人の学生からも同様に見られるもので, 伝統的な人文社会学の学問の枠組みでは捉えきれないところにある, あるいはメインストリームから離れたところにあるのが地域研究という領域の一つの性質らしい. 本投稿では, 歴史が浅く認知度も低い「地域研究」という領域が「学問」としていかに現代社会に成果を発していけるのかという点について考えてみる. 

 私の理解では, 学問というものを規定する要素は大雑把にいって二つある. 一つは研究の「対象」であり, もう一つは研究の「手法」である. この二つの要素を両方含みこむ学問も当然あるが, それぞれの研究分野の成立過程を見てみると, どちらかの要素がその領域の誕生に決定的な役割を担っていることが多い. 前者の代表例は, 文学であろう. 文学研究に置いて決定的に重要なのは, 作家の残したテクストであり, そのテクストをどう解釈, 分析するかを巡って, 方法論が確立してきたと考えるのが妥当である. 一方, 後者の例として歴史学がある. 歴史学には「歴史」という研究の対象があるではないかと思う人がいるかもしれないが, 「歴史」というものの実態は一体何だろうか?過去に書かれたテクスト全てを「歴史」の考察対象とみなすのであれば, 過去の文物を分析するという営みは全て歴史学になる.そうではないと私は考える. 歴史学の学問的アイデンティティは, 現代に生きる自己を起点として, 実証的に史料を収集, 諸資料を総合的・批判的に分析し, 長期的な時間スパンの中で研究者それぞれの関心のある社会, 制度, 言説の動態を明らかにするその「手法」, あるいは「思考法」にあると思う.  人文社会学の学問分野一般の存在意義を評価する際に, 研究の「対象」, 研究の「手法」という二つの基準はある程度有効である. 

 ではこの二つの評価基準を用いて, 地域研究を評価してみたい.

 対象について言えば地域研究の対象は単純明快で, 地球上のどこかにある「地域」である. この「地域」という語は,  抽象的に定義すると「なんらかの連続性あるいは同質性が見いだせる地理的空間, あるいは人々の認識上の広がり」というような意味あいになる. この定義を採用すると, 「地域」というのは掴もうとすると手から滑り落ちるウナギのようなものといえるかもしれない. 実際, 「地域」の定義をどう捉えるべきかという点に関しては, 研究者によってその立場は千差万別である. その原因として考えられるのは, どの側面に注目するかで, どこに連続性の切れ目, すなわち断絶が見られるのかという点についての結論が全く違ったものになるからである. 例えば, 地質学的な観点から「地域」を定義するとしよう. 「地域」を切り分ける基準となるものは, 人間が生活をしている地上よりさらに地球の中心に近い空間に存在する切れ目, すなわちプレートや堆積物の境目であろう. 一方で, 宗教学者が定義する「地域」における切れ目とは, ある信仰体系(キリスト教, 仏教, イスラームなどの世界宗教を考えるとわかりやすい. )が共有・実践されている空間的・認識上の広がりがより優位な信仰によって区切られる境界になろう. このような全く別の前提を持った二人の学者が「地域」とは何かという点について議論をかわしても, 両者の主張はすれ違うばかりでその議論自体あまり生産的ではない. 以上のように, 「地域」という概念自体, 可変的かつ立場によってその表情を変える極めて厄介なものだ. 「地域」概念を捉えるためには, ある特定の分野において「地域」概念を巡って特定の研究者コミュニティにいかなる合意が共有されているのかを参照することがまず第一に求められる. 

 この投稿の本題は「地域研究は学問か?」なので, 人文社会学の領域, とりわけ外国について研究する外国研究(”外国研究”という言葉は大学で聞いたことがないが, 意味を明確にするために便宜上そう呼ぶ)に焦点を絞って学説史を簡単に振り返ってみることにする. 歴史を振り返ってみると, 日本の地域研究において極めて厄介な「地域」概念が分析の枠組みとして確定されたのはつい最近のことだと分かる. 現代日本における学問領域としての地域研究は, 戦前はヨーロッパ発の「東洋学」, 戦後はアメリカ発のArea Studiesの影響下で誕生・発達した. 時代を遡ると, 東洋学は19世紀ヨーロッパにおける帝国主義の成立と時を同じくして生まれた「植民地研究」の学問である. アジア・アフリカの「遅れた」植民地に派遣されたイギリスやフランスの植民地行政官やキリスト教宣教師が, 現地社会を効率的に統治するために, あるいは好奇心から, その統治者としての特権を生かして現地の「未開社会」の言語や歴史, 宗教を含む文化一般について研究を始めたのがその成立起源である. 一方で, アメリカの地域研究は, 第二次世界大戦後, 冷戦体制下で米ソの覇権争いが熾烈化する中, 米ソに挟まれた地域すなわち東アジアや東南アジア諸国を中心に, 東, 西側どちら側につくかの立場を決めていなかった第三世界の国々を資本主義体制をもつ西側陣営に引き入れるために, 「地域」を「近代主権国家」と置き換えてその全体的理解を試みる学問として成立した. 依然として地域研究における「地域」が「近代国民国家」と概ね言い換えることができるのは, ヨーロッパ式の東洋学においてもアメリカ式のArea Studiesにおいても, 欧米式の主権国家モデルを前提にしているからである. 

 現代日本の大学で地域研究の名を持つ学科を有する大学はそれほど多くない. 数少ない地域研究学科の多くがアメリカ式のArea Studiesの影響を受けて設立されただろうということは, 戦後日本の学問体系がアメリカの学問の影響を強く受けてきたことを考えれば想像に難くない. 黎明期のアメリカ式地域研究は政策提言に結びつくような研究を評価するもので, アジア・アフリカ研究に関していえば, 現地調査によって得られたデータを分析した研究, 現代的な事象を扱う研究, 問題発見・解決志向型の研究を重視する傾向が強かったようである. 日本がアメリカ式の地域研究を無批判に受容したかというとそんなことはないのだが, 日本においても上述のような研究が, 歴史学や社会学などの隣接諸分野との差異を主張する際に引き合いに出される地域研究のアイデンティティとなっている. 続く文章での地域研究は, 日本にも多大な影響を与えたアメリカ式のArea Studiesを指す. 

 では, 研究の「手法」という二つ目の評価基準でアメリカ式の地域研究を評価してみよう. アメリカ式の地域研究の方法論的特徴は大きく分けて二つある. 一つ目の特徴は, その「学際性」, 平たい言葉でいうと「総合性」である. 任意の社会というものは, 政治, 経済, 文化, 歴史が渾然一体となった極めて複雑なもので, 一つの切り口で適切に分析することはできないという前提が地域研究者には共有されている. 複雑な社会の諸要素の相関関係を捉えるには, 幅広い領域の諸要素に目配りできる視野の広さが必要というのが地域研究者が発する常套句である. 第二の特徴は, 徹底した「臨地主義」である. 研究対象の地域に一度も行ったことがない研究者は地域研究者を自称できない. 経験科学である地域研究の道に進む者にとって, フィールドは思考の材料を見つけてくるある種「聖地」とも言える重要な場であり, 地域研究者は「神聖」で「特殊な場」である自らのフィールドを分析する能力を有していることに一種の矜持といえるようなものを持っている.(この矜持が暴走すると隣接諸分野の専門家から手厳しく批判されることになる. 私も気をつけたい.) この点に関しては, 歴史学者と地域研究者は立場を相当に異にする. 私の理解では, 伝統的な歴史学者にとって究極的に重要なのは, 過去の世界についての情報を提供する史料である. 現実的にはそんなことはあり得ないのだが, 仮に自分の住んでいる国に世界中の全ての歴史史料が収集されているのであれば, 歴史家は国内で全ての研究を完結させることができる. しかし, 地域研究者は二次文献, 歴史資料がいかに国内に大量にあったとしても, 現地での経験に基づいて帰納的に思考しなくてはならない. 以上を踏まえると, 地域研究が隣接諸分野と比較した際に優位性を主張できるのは, その「学際性」と「臨地主義」であるといえる.

 前置きが長くなったが, 以上のことを踏まえてこの投稿における問いである「地域研究は学問か?」という論点に関して結論を出していく. アメリカ式の地域研究における研究対象は, 例外は当然あるが基本的には欧米型の国家モデルに基づく主権国家の枠組み内部の諸現象である. 手法としては, 学際的アプローチ, 臨地主義を重視する点に特徴がある. 「地域研究は学問か?」という問いが他の分野の専門家から投げかけられてしまう理由は, 主に二つあると考えられる. 一つ目の理由として,「学際的」かつ「臨地主義」的な手法が, 世界諸地域を比較した際に立ち現れる権力の非対称性という問題と切っても切れない関係にあるという点が指摘できる. 「植民地支配」や「大国の小国への暴力的介入」といったグローバルな現象の背後には, 一方的で極めて強引な行為を正当化する軍事的・文化的・経済的な力学が働いており, 朝鮮半島の南北分裂, アメリカのベトナム戦争介入等, そう遠くない過去の事件にも地域研究的な手法で得られた研究成果が間接的に関与していることは否めない. 学問はそれ自体が目的となるべきものであって, 政治・経済的な目的を達成するための手段になってはならないという立場を取るのであれば, 地域研究が世界史において過去に担った役割は見過ごせないものである.  二点目に, 「学際的」, 「臨地主義」という言葉にまとわりつく胡散臭さである. これは私自身も薄々感じていることではあるが, 地域研究が掲げるような諸領域に目を向けながら帰納的な方法で「地域」を総合的に理解するという目標は本当に達成可能なのだろうかという疑義の念が存在する. 地域研究者が口にする「地域の総合的理解」という高邁な理想は, 実証主義を重視する学問を修めた人間から見れば空虚で地に足がつかない理想論に映るかもしれない. 以上の二つの批判は原理的なレベルにおいては的確で正しいものであり, 真っ向から反論することは難しい. しかし, これらの批判を真に受けて, 「地域研究は学問ではない. 強いていうなら, 学者かぶれが記したくだらない旅行の記録を扱うサークルのようなものである」という結論を出すのが正しいとも私は思わない. 上述の批判を一旦引き受けた上で, 私は「地域研究は"発展途上"の学問である」というある種逃げとも捉えられる結論を提示したい. まず, 批判の一点目, 地域研究の基盤には権力の非対称性が存在し, 様々な領域において力で勝る国, あるいはある地域が他地域へと暴力的に働きかけるための道具として利用されうる性質を有するという批判についてだが, この問題は本質的には地域研究に内在的な問題ではなく, 地域研究者が導いた知見を誰がどう利用するかという政治的な問題である. 科学技術が暴走して多大な被害を出した時に, 科学者にだけ暴走の責任を転嫁することは正当な行為だろうか?アカデミアで得られた知識を踏まえてどう国家を運営していくかは, 人々が政治の領域で議論をして社会全体で決めていくべきことであり, 決して地域研究者だけが考えるべき問題ではない. 諸外国との関係が着実に深化している現代において, 公共性の高い議論を深めていくための思考の材料を, 同時代の海外の様々なフィールドから提供してくれる地域研究というディシプリンは情報の即時性と正確性という観点からそれ自体価値があるものとして評価できる. 第二に, 「学際的」「臨地主義的」アプローチのきな臭さという問題だが, 私自身の経験上, 現地に行って直接現地の人に話を聞いたり, 現地メディアを現地語で追うことで初めて知ることができる情報がかなりある. そして「臨地主義」に関して提起したい論点は, 自身の身を置く環境を変えると, 人間の思考自体が環境に応じて変化するということは多々あるということだ. 現在という瞬間に人間が身をおく環境には, 歴史の過程において自然環境と人間の主体的働きかけとの相互作用によって育まれた「地域の論理」と呼べるようなものがあると私は考える. この主張は荒唐無稽に聞こえるかもしれないが, 世界各地を転々とした学者の方から話を聞くと概ねこの見解に一致する答えが返ってくることが多い. 「グローバル化によって欧米型の単一の発展モデルが世界中に広がっている」「世界のアメリカ化」という指摘は部分的には確かに正しいが, 一方でこうした発展・成長モデルあるいは国際秩序観が「地域の論理」とのせめぎ合いの中で再検討されているばかりか, 現在も刻一刻と変容しているということもまた事実である. 地域研究的な手法は, 地域というローカルな文脈から支配的かつ不可逆的な流れのようにも一見思える「グローバルな論理」なるものの「普遍性」を問い直すことを可能にする. そういう意味において, 地域研究という領域は人文社会科学の分野において一定の存在意義があり, 社会にとって有益な知見を提供するポテンシャルがあると考える. 地域研究が抱える課題は, 研究対象, 手法の両面において極めて多い. しかし, 「地域」というミクロなレンズは人間が「世界」や「グローバルな普遍的価値」などといった曖昧模糊とした大きいスケールの対象を考える際に必要なものではないだろうか. その意味において「地域研究は"発展途上"の学問である」と結論付けても乱暴ではないと私は考える. 


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