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自分がちょっと損するということ

“誰かのために自分を差し出す”これを献身といいます。といっても、あまり大げさに考えすぎないようにしましょう。

聖書にはこんな古事が記されています。男だけで5000人の群衆がキリストの話しを聞くために集まっていました。そろそろ日が傾き始めた頃。キリストは弟子達に、群衆のために食事を用意しよう!と言われました。弟子達の反応は「ムリ!」でした。するとそこにいた少年が自分の弁当の5つのパンと2匹の魚をキリストに差し出しました。少年が差し出した弁当は群衆の人数に比して小さすぎる弁当ですが、キリストはそれを感謝して受け取り、群衆に分けました。すると人々は食べて満足したのです。

この出来事は、差し出されたものがどんなものであれ、誰かのために心を込めて差し出したものを、キリストは軽んじることなく豊かに用いてくださることを意味しています。

このように身近な人々のために自分を差し出す人をキリストは大変喜び、それを用いて人々を祝福すると同時に、差し出した人は神と人のために貢献できた誇らしい喜びで満たされます。

差し出すといっても、いきなり全てを差し出すには勇気がいります。ですから、自分がちょっと損をして、相手にちょっと得をさせてあげるところから始めてはいかがでしょうか。自分が少し負けて、相手に少し勝たせてあげるのです。自分の勝利を相手に差し出すのです。

そのような生き方が世の中に愛の灯を灯していくことになるのでしょうね。

神の子キリストは、私たちのために、神の似姿を差し出しただけでなく、私たちの罪を帳消しにするために自分の命までも差し出してくださいました。これによって灯った愛の灯は今や世界中に広まっています。

**参照聖句**
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
ピリピ2章6-8節


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