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自分のお気に入りを忘れろ。

アマチュアカメラマンにあげた一番正直なアドバイス。

ある日にアマチュアカメラマンとお茶することがあって。友人づてに連絡が来て「君の写真が好きすぎて、どうしても会って、自分の写真を見せたいらしい」と。
行きつけの喫茶店で、紹介されながら「この人は君を写真の神様のように崇めているよ」と言われて、すこし恥ずかしそうに困っているそのカメラマンの顔を見ながら僕も戸惑っていた。それほどではないが、ここまで言われると素直に向き合ってみようと思った。

挨拶が済んでコーヒーが届き、すぐにも彼が撮った一番お気に入りの写真を見せられそれらの写真について並の哲学を聞かされ、ご丁寧にも「いいね」やフォロワー数の数字を自慢されていた。ちなみに彼は、僕より圧倒的にフォロワー数やいいねの回数は多かった。

写真はとても綺麗でした。
だが、それだけでした。

この綺麗な写真は僕がそこかしこで一万回以上見かける、虚ろな笑顔を見ている気分でした。

チョコエッグをかじって中身が空っぽだったことに気づいた時のような、なんとも言えない虚しさ。
その時に僕は深い呼吸をして、さっきまで褒められて膨らんでいたエゴのマスクを外し(あそこまで褒められた僕のエゴはもちろん好かれたいとざわめいていた)、カメラマンに苦い薬を与えようと、一番正直なアドバイスをした。

自分のお気に入りを忘れろ。

がっかりを抱きなさい。並の写真を選び、だがその並の写真を数知れぬ程撮れ。

そして、神様と思う僕の肉体の上で踊りなさい。あなたの並の写真があなたの一番に変わる瞬間が必ずくる。カーリーがシヴァの遺体の上に踊ってるかのように踊れ。時に素直や正直は最初に好かれることがない。学んだ写真の哲学を殺し、その遺体の上に踊れ。

実際僕は伝えたのは以下でした:
「誰が写真はシャープでなければいけないと言った?誰がオレンジとティールが良いと決めたの?誰が好かれるか好かれないか気にするの?1万や10万のフォロワー数はなんの評価に繋がるの?大抵大勢の人が「いいね」と思うものはもう既にどこかで見て、覚えがあるものだ。僕がこの写真を既にどこかで見て、あなたもこの写真を既にどこかで見て、その記憶に辿っていることにすぎない。なら、写真にはどう言う目的がある?なぜこの写真をあなたは気に入っているの?」

「あなたは好かれたい為に言葉を選ぶのか、それとも真実を伝える為に言葉を選ぶ?あなたは正直にコミュニケーションをとっているの?自分の言葉や自分の言語を選んで話しているの?自分の声がどこにあるの?自分の自然や本心についてものを作っているのか、それとも誰かに憧れて自分じゃないものになりたいのか?その結果の中に幸せは果たして存在しているの?」

誰かをうまく真似るより自分を下手にやった方が良い。

アマチュアカメラマンが当然ショックを受けていた。コーヒーのコップから目を離さず、こっちに顔を上げることはなかった。期待していた返答とは違ったのだろう。ただ、勘違いしないで欲しい、そのカメラマンの写真はとてもよかった、ただその人のことを何も語っていませんでした。そしてこっちまで伝えることは何もなかった。

誰しもが知っている、嘘をつけばつくほど、真実を話すのは難しくなる。

なので、今から始めなさい。
どうして誰かに好かれるか好かれないか気にする必要があるの?そして僕があなたの写真を気に入るかどうかがなぜ重要なの?常に、いつだって、あなたがやっていることを好きと嫌いな人がいるでしょう(その時によってそれぞれの数が変わっているだけ)。他者に育てられた「流行り」に答えている上っ面な自分を好きな大勢の人より、本来の自分を好きでいてくれる数人を選んだ方が良いでしょう。

よく中を見つめて、なぜ本当の自分を見せるのは怖いのでしょう?
僕がよく言う「並」はそういう意味を持つ。
じっと見つめて、自分の本心と一致している写真はどれか。
その写真達を選びなさい。

だが、今のお気に入りを忘れろ。

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そして、このアドバイスの遺体の上にも、踊るといいでしょう。
(笑)

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