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亡き祖母への感謝

今月24日、祖母が亡くなってからちょうど1年が経った。91歳の大往生だった。僕にとって、最後の祖父母だった。

小学校1年の夏、僕は父の転勤で大阪から東京の小学校に転校してきた。当初、なかなか学校に馴染めずに学校へ行きたくないとよく泣きべそをかいていたという。今でも鮮明に思い出せる日がある。

たまたま東北から遊びに来てくれていた祖母が、

「ほら、おばあちゃんが一緒に行ってあげるから」

と、言ってくれて学校まで祖母と歩いて行ったことを今でもよく覚えている。母親ではなく、祖母にこう言われるとなぜか分からないが不思議な力が働く。

成人式の日、袴姿を見せに行った時はとても喜んでくれた。大学時代に世界一周の旅から帰国した時は、ボサボサの長い髪をした僕の姿を見るやいなや、

「若者なんだから。そんな格好をいつまでもしてちゃだめ。清潔になさい」

と、言われ僕はすぐに床屋さんへ向かった。

祖母は広島で育ち、幼い頃に被爆した。突然の暴風のなか、うつ伏せで妹を覆い守りながら必死に耐えた。

水をくれ、水をくれと大火傷を負って叫ぶ人たちに、自分は水もあげられない。川には真っ黒な死体が浮き、焼け焦げた街の至る所から悲鳴が止まない。とても歩けたものではなかった。

そうした信じられない話もしてくれた祖母だったが、そうした過去の辛い経験を微塵も感じさせないほど明るく、いつもニコニコと笑って周囲の雰囲気を和やかにしてくれる。僕にとって、祖母はそんな存在だった。

「いつか、あなたの赤ちゃんも抱っこさせてね」

と、20代後半の時に言われたことがある。当時、僕はまだ独身で結婚願望もまるでなかった。彼女すらいないのだ。

こればっかりは。正直、大丈夫かなぁと不安になった。

兄2人はすでに結婚してそれぞれ3人の子供にも恵まれ、祖母は6人のひ孫がいた。それだけでも祖母は幸せだったのではないかと思う。

それから時は経ち、僕も縁があって結婚をし去年1月24日に第一子である息子を授かった。祖母にとって7人目のひ孫だ。

だが、ちょうどその頃から祖母の具合も悪くなっていた。一日を通して眠っている時間も多くなっていた。

息子も生まれて間もないため、すぐに外出させるわけにもいかない。近所ならまだいいが、当時は伊豆に両親と母の妹と祖母が一緒に暮らしていた。生後1ヶ月そこらの赤ん坊を3時間もかけて車で行くのは、さすがに妻や義母が心配していた。

ただ、僕としてはなんとか祖母との約束を叶えたい。

3月半ば、母親から家族に連絡が入る。

「おばあちゃん、いよいよかもしれない」

僕は妻と相談し、2ヶ月足らずの息子を車に乗せて伊豆へ向かった。

祖母はベッドで眠っていた。息子を手に抱えながら祖母の胸元へやった。祖母は変わらず眠ったままだが、息子の方は活動的で嬉しそうに笑っている。

それから妻と息子だけ伊豆に残し、僕は仕事の都合でいったん東京に戻った。一週間ほど妻と息子は祖母と一緒に過ごし、妻からは状況を知らせてもらった。

「今日、おばあちゃんがほんの少しだけど頭をなでてくれたよ」

目も閉じているし無表情の祖母だが、息子に手を添えながら胸元で抱えている写真が送られてきた。息子は笑っている。時には、祖母の胸元で一緒に寝ている写真もあった。

一週間後、僕は再び伊豆へ行って祖母に再会した。容体は変わらずだった。

祖母が眠るように亡くなったと連絡が入ったのは、東京に戻ってから2日後のことだった。

あれからもう1年が経った。

息子はといえば、今まさに怪獣のように家の中を歩き回っている。机の下から手を伸ばし、自分もキーボードを叩くのだと必死になっている。日に日に自己主張が激しくなっている。

祖母と息子は、わずか1週間ほどしか一緒にいることはできなかった。おそらく、息子はさっぱり覚えてないだろう。

ただ、僕や妻はそれを見届けることができた。何とか祖母の願いを叶えることもできた。

祖母が最後の力を振り絞って、息子を抱っこしようと待っていてくれたのだろう。そうした機会を与えてくれた祖母に改めて感謝したい。

息子が”怪獣”を卒業して会話ができるようになったら、僕が”祖母と息子の世代を繋げる”証人”として、色々な話をしてやろうと思う。

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