新聞の”論説委員”←この違い、分かる?→テレビの”解説委員”

インターネットには、マスコミ報道への疑念、特に公平性の欠いたメディアスクラムや、「『報道しない自由』を行使しているのでは?」だったり「広告主への忖度が働きがちなのではないか?」と言った懸念が相当程度共有されている。

今回は、マスコミについて論じる際に、知っておいた方が良い知識として、

  • 新聞における  ”論説委員”

  • テレビにおける ”解説委員”

について解説したい。


新聞における”論説委員”

新聞には、「社説」と言うものが存在する。
その時点で注目を集める時事問題や、中長期に渡る政治課題、経済問題、社会問題に関して、新聞社としての意見を表明するモノだ。

大体、2面以降のページ数の若い面や、オピニオン面(読者や社外の投稿意見を載せる面)に掲載される。

複数人からなる「論説委員」が翌日付朝刊の「社説」内容を話し合いその分野に精通した「論説委員」が草稿を作り再度「論説委員」が討議、手直しを行って最終稿が完成し、掲載される。
記事作成の経緯から、執筆者の名前の出ない記事ではあるが、新聞社のホームページの記者紹介にて論説委員は出ているので、完全匿名と言う訳では無い。
(HPにて紹介されてる論説委員で全てなのかは、正直良く分からないが)
また、記者個人個人にも政治的傾向がそれなりにあるものだが、複数回の討議を経ている事から、記者個人と言うより新聞社としての基本的政治スタンスが反映されていると捉えるべきだろう。

また、社説では署名記事にならない、と言う事であって、「論説委員」が記者個人として署名記事を執筆する事はある。

地方紙の報道体制と「通信社」

新聞は大別すると2つに分けられる。

  • 全国紙(読売新聞、朝日新聞、日本経済新聞、毎日新聞、産経新聞)

  • 地方紙(上記以外の新聞)

地方紙は更に、複数県で大きなシェアを持つ「ブロック紙」(例えば、東海3県を中心に周辺県にも一定の販路を持つ中日新聞など)、単一都道府県で大きなシェアを持つ「県紙」、都道府県内の特定地域に根差す「地域紙」などに分けられる。
地方紙にとって大きな問題となるのが、
「地元”以外”の情報をどのように収集し、報道するか?」
だ。

これを解消する存在が「通信社」になる。
日本にはwikipedia情報で5つの通信社が存在するが、各地のニュースを取材し、それを新聞社に対し契約に基づいて提供、ないし販売する事でビジネスを成立させているのは以下の2社になる。

  • 時事通信社

  • 共同通信社

この2社は共に、戦前、戦中に存在した「同盟通信社」を祖とする。
国策通信社として活動していた同盟通信社に対し、戦後の日本を統治したGHQから解散命令が出され、部門で分割されて2社の民間通信社となった流れだ。

一般報道部門を引き継いだ共同通信社は、設立当初から多くの各種報道機関を加盟社として出資を受け、出資する程の資金力が無い機関、または独自の取材力を持つ大手マスコミ企業とは契約メディアとして関係を持っている事から、経営面では安定していたし、都市部でも地方でも手広く取材・配信を行っているし、逆に加盟社の現地取材に基づく記事を他の加盟社へ提供する加盟社同士の媒体としても機能している。
ネット記事のソースとして「47(よんなな)ニュース」も割と見掛ける媒体なのだが、この「47ニュース」は共同通信社、及び共同通信加盟社で作る総合ニュースサイトだ。
時事通信社はBtoB(Bisiness to Bisiness:民間企業間の商取引)の経済ニュース配信、及び出版部門を引き継いだもので当初から経営的に弱く、苦しい状況が続きながらも、今では主に政局報道などで重要人物とのパイプを土台として他社に先んじたスクープ報道で存在感を見せている。

地方紙にとって取材活動を行えない地域のニュース報道は、通信社の記事配信に拠るところが大きい。

地方紙と「社説」

共同通信社共同通信論説委員室として「社説のひな形」加盟社に提供している。
共同通信加盟地方紙は、共同通信発の「社説のひな形」をそのまま掲載したり、適宜自社で手直しした上で掲載するなどしている。

まだ2ちゃんねるのニュー速系(ニュース速報やニュース速報+)がそれなりの自由度を維持していた頃、大きな政治問題が発生した際には同じ問題を取り扱う各地の地方新聞記事でスレが立てられ、全ての記事に多くの書き込みがなされたものだ。
その中で、新聞社が異なるのに社説が殆ど同じである事を以て「何らかの情報統制がお行われてるのでは?」と疑念を抱く人が少なからず現れた。
だが、地方紙の社説にはネタ元として共同通信のひな形があるのだから、「”何故か”社説がほぼ同じ」事は必然だったのだ。
有力な地方紙の場合、共同通信のひな形に沿って全国的に注目度の高い話題で社説を1つ作り、もう1つは自社のカバーする地域の話題を取り上げる形式が多いようだ。

新聞発行部数が大いに減少した現在でも、未だに数多くの地方新聞が発行されている。
全国紙5紙はマスコミの中核をなし、個別問題での世論形成にも影響力を持つ。
だが、トータルで見れば全国紙5紙より、地方紙の総計の方が発行部数はずっと大きい。共同通信加盟の地方紙だけでも全国紙より多いのだ。
実は共同通信の「社説のひな形」の方が、どの全国紙よりも多くの読者を抱えていて、世論形成に大きな影響力を持っている
多分、ニュースを普段そこまで追ってない人でも、全国紙の新聞社名は聞けば分かるだろう。全国紙を聞いてギリギリ分かるくらいの人にとっては、共同通信社と言う名前も知らない会社の方が強い影響力を持っていると言われると陰謀論のように感じるかも知れない。

共同通信社が政治的公平性に十二分に配慮し、両論併記で当たり障りの無い社説を書いてる通信社なら、陰謀論的言説を笑って否定出来るのだが……
残念ながら、共同通信社は朝日や毎日に匹敵するか、それを凌駕する勢いで左側に傾倒している。そして、共同通信の「社説のひな形」を流用している地方紙も共同通信に引っ張られるように、左傾化を強めている
現実主義的スタンスから左派マスコミの報道ぶりを批判する際、どうしても朝日新聞、毎日新聞、東京新聞辺りに目が向かいがちになるが、共同通信の隠然たる影響力にも留意しなければならない

余談:地方メディアの無邪気な左傾化

個人的に目に留まった範囲だけの私見なのだが、どうも地方紙、地方テレビ局の方が、左派的スタンスを取る時に躊躇いが少ないように見える。
両論への配慮は自分達なりにやってる気でいるようだが、配慮の足りなさに気付けていない。
何か、マスコミ関係者の中に「東京信仰」のようなモノが存在していて、東京の方で主流とされる側に全振りしてしまう事を安易に良しとしてしまっているように感じられるのだ。

主流への反論にもある程度の紙面を割く全国紙、反対論者を呼んで語らせる機会を設ける東京キー局より、「既に議論の趨勢は決まった」と思い込んで早期に決め打ちする地方紙、地方局はメディアとして危うい。
国民に正確な情報を伝える事を期待されているメディアが、自分達にとって望ましい方向に国民を誘導する事に躊躇いが無いのだから、恐ろしい話だ。

誤解しないで欲しいが、これは全国紙、東京キー局を褒めている訳じゃない。
到底褒められないレベルで大きく偏向している全国紙、東京キー局より、更に公平性軽視に流されやすい地方紙、地方局の異常性を語っているのだ。

私の住む地域のラジオ局で、ニュース解説として高齢の地方大学学長が曜日レギュラーで出演していたのだが、大手左派系メディアでは到底扱えないようなレベル、SNSの極端な左派が身内ノリで盛り上がる曲解、言いがかりレベルの政府批判、自民党批判をほぼそのままトレースするように語り続け、聞き手のアナウンサーも「はー、そうなんですねー」と言うだけでツッコミ不在。地獄のような電波空間が繰り広げられていた。

安倍政権下で進められた特定秘密保護法が話題になっていた頃、バラエティ的なトークを繰り広げるタイプのラジオ番組ですら、「今の政治状況っておかしいよね」を前提にしたトークが行われた。番組の性質的に具体的に何が、とまで掘り下げなかったが、出演者やスタッフ的には自然と出て来た言葉なのだろう。ただ、聴取者からある程度のクレームが入ったからだろうが、番組の後半で「色々な考え方がある話を一方的に批判的に語ってしまった」と言う部分を謝罪していた。この原因と結果に対しては、必要な対応をきちんととったものとしてこれ以上非難する気は無いのだが、地方局の政治に対する空気感を良く反映した出来事なのだろうと感じた。

多分、音声情報しかないラジオでは、語られている時事問題に対して事前に一定程度の知識が無ければ、深く理解する事はかなり難しいだろう。
多くの聴取者にとっては幾ら聞いたところで、小難しい話の時点で聞いた端からこぼれて行く。
問題のあらましも、具体的に何がどのように問題だったのかも、ほぼ記憶には残らないんじゃないかと思う。
そうは言っても、長くその論調に触れていれば、そこで語られる政府批判、自民党批判に段々と信憑性を感じるようになるだろう。

自分の言葉で説明出来る訳では無いが「自民党は常に悪い事をしでかそうとしているのだろう」と信じ込む人を生み出す装置としてのラジオがそこにはある。
自分としては、こう言った行為について「悪い事だと思いつつ政治信念に基づいてやっている」んじゃなく、「え?何かいけない事してる?」と無邪気に偏向報道をやってる雰囲気の方が恐ろしく感じる
まだ日本が社会主義国になっていない事が不思議に思えるくらいだ。
それくらいローカルメディアの左派傾倒は酷い有様になってる。

テレビにおける”解説委員”

新聞は許認可事業(政府、行政機関からの許諾を得て行う事業)ではない。
なので、誰でも今すぐにでも新聞発行を行う事が可能だ。

一方で、テレビ放送は許認可事業だ。
電波法に基づく放送免許を持たない者にテレビ放送をする権利は与えられない。

「マスコミ」、「マスメディア」の一員である事に変わりはない新聞社とテレビ局で、このような差が生まれるのは何故か?
それは、テレビ放送には”電波”が使用されている事が大きく関わっている。

”電波”は「”限りある”国民共有の財産」

「電波は有限な資源」
と言われて、「まぁ、そうよね」と返せる人は理系知識の豊富な人だろう。

平均的な日本人の理系知識を想像すると
「えっ?電波っていつか使えなくなるの!?」
と反応する人は少なくないだろうと思う。

「電波そのものがいつか無くなる」
と言う話ではない。
「通信手段として使用可能な電波の”周波数”には限りがある」
と言う話なのだ。

まず、伝えたい情報を何らかの形式で電波の強弱で置き換え、それを発信する。
それを受信した側は、受け取った電波の強弱を決められた形式で復元する事で、情報を再現するのだ。
ラジオもテレビも基本は同じだ。
ただ、皆が適当な周波数を選んで勝手に発信するのでは、混信が起こってしまう。違う人が出した電波を拾ってしまう事で、正しい情報の受け渡しが出来なくなってしまうのだ。
多分、一番身近に発生しうる実例が、AMラジオの混信だ。
AMラジオで使われる周波数はkHz(キロヘルツ)を単位として、531から1602まで、9刻みのどれかになっている。
AMラジオで使われている電波帯は、太陽が出ていない時間帯には大気圏の電離層に当たって跳ね返って地上に戻って来る関係から、非常に広い範囲まで”届いてしまう”。この為、外国のAMラジオ放送の電波まで勝手に拾う事で混信が起きてしまうのだ。
ラジオもテレビも物理的に距離が近い放送局は、ラジオ同士、テレビ同士での混信を避ける為、使用する周波数をある程度離している。

2011年にテレビのアナログ放送からデジタル放送へ完全移行が行われたが、デジタル化によってテレビ放送で使用する周波数から余りが生じた。
テレビ放送用に割り当てられた周波数帯は、電波特性の部分で各種電波通信で活用しやすいところであり、プラチナバンド(プラチナ:貴金属の白金、バンド:帯。”貴重”な電波”帯”との意味)と呼ばれる。
特に、携帯電話の普及によって無線通信サービスが大いに発展したが、使用できる電波帯はテレビ、ラジオ、その他の通信事業で既に使用されていた部分の残りを活用していた訳で、更に契約者の急増によって何処も慢性的な周波数不足に悩んでいた。
テレビのデジタル化は、余った周波数帯が手に入れられるチャンスとなった事で、無線通信企業各社にとって非常に有難いものだったし、それ故に当時は頻繁にニュース解説されていた訳だ。

このように、使用可能な電波の周波数帯には限りがあり、それを使用するテレビ放送は「誰でも自由に」出来るものではないのだ。
また、その事から「どのようにテレビ放送を行うか?」の指針も必要とされた。
テレビ放送で独占的にこの周波数帯を利用する権利を与えると言う事は、他の個人、法人にはその周波数帯を使用してはならないと制限する事に他ならない。
その環境で行われるテレビ放送には、自ずと「公共の利益に適う事」が求められる事になる。
それが放送法第4条だ。

第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

一 公安及び善良な風俗を害しないこと。

二 政治的に公平であること。

三 報道は事実をまげないですること。

四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

e-GOV.法令検索から放送法の一部引用

そして、これが新聞報道とテレビ報道の大きな違いを生む事になる。

テレビは局として「論説しない事になってる」

新聞は誰でも自由に(公序良俗に反しない限りではあるが)どんな主張を行っても良い。
国民がその新聞を買うかどうかも自由だし、読者がその内容を信じるかどうかも自由だからだ。
もし、試しに買って読んでみたところ「役に立たない」と思ったなら、その人は以降買わなければ良いだけの話だ。
市場原理によって、国民の支持を集める事の出来ない新聞は淘汰され得る。
一般の書籍と同じ話になる。

一方、テレビの場合、そもそも放送出来る局の数に限りがある。
やる気があっても使用可能な周波数帯が残っていなければテレビ局を立ち上げる事は出来ない。
既存のテレビ局だけで、社会インフラの一部を為すのだ。
放送法で放送内容に留意すべき点が列挙されるのは至極当然の話だ。
国民にとっての限りある共有財産である電波を使うと言うのは、それくらい重い事なのだ。

その結果、テレビは両論ある話について、一方的な主張を垂れ流す事はしてはいけない事になっている。
それがきちんと守れているか?は大いに疑問は残るが、取り敢えず建前上、そうなっている。

この為、ニュース解説において、
「我がテレビ局としてはこのように考えます」
との主張はしてはならない。
「論説」してはならないので、その代わりに「解説」するのだ。

論説:物事の理非、是非を論じ、主張を述べる事
解説:物事を分析し、要点・意味・理由などを説明する事

※但し、辞書によっては「論説」について「解説する事」との文言が含まれている場合もある。国語的な意味合いでバチッと決められるモノでは無く、法律に合致するよう文言解釈を行ったと言う話であり、広い意味で法律用語的な使い分けだと考えれば良いと思う

時間泥棒・作

ただ、この話は
「テレビ局の解説委員は、個人的見解を言ってはならない」
との意味ではない。
「個人としてどう考えるか」
「個人的にはこうあるべきだと思う」
との主張自体は行っても構わない。
だがその際に、それが社会全体が受け入れるべき結論かのように語って国民を誘導しようとするのがいけないのだ。
違う主張がなされているなら、そちらの主張もきちんと伝えなければならない。
ここは解説委員の仕事と言うより、番組構成を考えるディレクターなどの仕事になるだろう。

放送法の求めているのは
「意見対立のある問題では、両論を紹介して国民の判断材料を提供しなさい」
「決めるのはあくまで国民一人一人であって、テレビ局ではないですよ」
と言う事だ。

まとめ

以上が

  • 新聞では  ”論説委員”

  • テレビでは ”解説委員”

となる事の解説になる。

ここまで解説しといて何だが、「テレビも当たり前のように論説してる」のが今現在の日本の現実だ。
無自覚に偏向報道を行っていて、政治を扱う番組で偏向してないモノなどあるのか?と言うくらいに酷い。
新聞の論説委員をニュースや報道系の番組のコメンテーターに起用して、好き勝手に喋らせてるんだから、自社で”解説委員”を用意してる意味を各番組が番組構成の面で無力化してるようなものだ。
報道の公平性なんて、普段の放送で守る気があるのか?と言う体たらくだ。

一方で、選挙期間になった途端に、それが本当に「妥当性ある公平」なのかも怪しい公平性を発揮し、大政党もギリギリ政党要件を満たした少数政党も同じように扱い出す。
結果としてごく一部の選挙区にしか立候補者が出てない少数政党が場違いに発言機会を有し、特殊な政見に基づき奇をてらったパフォーマンスに走るのを視聴者に垂れ流す事になる。

メディアが「『社会の公器』としての役割を果たせているのか?」を自問自答するようにならなければ、何時までたってもこの調子だろう。
変化する兆しなんて何一つ見えない。

一視聴者の立場で出来るのは、マスコミに騙されない事だ。
そして、マスコミの論調に流されず、自分の頭で考える切っ掛けとして活用する事だ。
テレビの視聴習慣を無くした人が多くなって来ているようだし、ニュース番組を視聴している人も大分減っているかも知れない。
そんな状況ではあるけれども、もし貴方がテレビでニュースや時事解説系番組を観る機会があったなら、その報道の仕方、放送内容で誘導している結論の妥当性評価と、放送法第4条の精神を守られているかどうかをチェックする事で、マスコミを評価する力を身に付けて欲しい。
気を許せばすぐ騙そうとする連中から、身を護る術を手に入れるべきだ。

なんだか、特殊詐欺への対処法を語ってるみたいになったけど、確かにちょっと似てるかもな、と思ったり。
今回はここまで。

<了>

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