「令和6年能登半島地震」に際し、改めて地方自治及び自衛隊の災害派遣について考える(その2)

昨日の投稿記事の続きです。

災害対応を通じて、現代日本の地方自治について改めて知る事で、マスコミの無責任な政府批判に騙されないリテラシーを身に付けてもらえれば。


日本は言う程、中央集権国家じゃない

前回のおさらいになるが、戦後日本の政治体制はGHQの意向が強く反映されている。
国がこうだと言った際に、地方がそれに従わざるを得ない制度設計は不健全だとされ、上意下達的なシステムを意図的に取り除いて行った。

例えば、都道府県と市町村の関係性だ。

実は都道府県、市町村の立場は対等

戦前は上から「国」・「都道府県」・「市町村」の序列が確立されていたが、GHQの指導により都道府県と市町村の上下関係は解消された。
都道府県は「包括的地方公共団体」、市町村は「基礎的地方公共団体」として性質的な違いはあるものの、ここに序列的な意味は無い。

無論、市町村の立場でむやみに都道府県と対立すれば、都道府県としての予算振り分けにおいて地域的に不利となる可能性もある訳で、その意味で市町村より都道府県の方が立場が強くなりやすい嫌いは現実としてあるだろう。
だが、市町村側がその種の苦境を甘受するならば、意見対立から対決姿勢を取る事は可能なのだ。

そして、大阪維新の会が成立する前の大阪府、大阪市の対立はまさに都道府県、市町村の立場が対等である事の証左だ。
大阪府、大阪市の意見対立が地方行政の不便さ、無駄を生んでいる事、そしてそのマイナスを地域住民が負わされている事を指して「府市あわせ(不幸せ)」と揶揄されて来た。
このような対立状況をシステマティックに解消する手段を誰も持たない事は、上意下達の中央集権的制度から地方分権を無理やりに推し進めた弊害とも言えるだろう。

警察組織における地方分権

戦前の警察は、国家主義を実現する為の取り締まりを行っていた関係から、やはりGHQはその制度に国家主義的な精神性があると見做し、地方分権を進めるとのお題目を掲げ、解体的な組織改編を行った。
GHQ占領期間を終えた後、現在の日本の警察は都道府県警(東京都は警視庁がそれに当たる)とそれらを管理監督する警察庁と言う2段構えの組織となっている。
GHQ占領期の体制との比較で中央集権的と評されるものの、それでも警察庁は国家警察として十分な機能を持ってはいない。
何が足りないかと言うと、独自の捜査機関を保有していない点だ。

例えば、アメリカで言えば各州に州警察が存在し、その上位にアメリカ全土を所管とする連邦捜査局、FBIが存在する。
FBIは事件の重要性や、早期解決が果たせなかった事などを理由として州警察から捜査主体としての役割を奪う事になる。
それ故、米国ドラマや映画で描かれる警察の内幕において、州警察とFBIは常に対立的に描かれるのだ。

余談(州警察とFBIの関係性を示すかも知れない、とある事件報道に関して)

余談になるが、米国では定期的に銃乱射事件が発生する。
この事件捜査に州警察が当たるのか、FBIが当たるのかは、被害者数の多寡が影響する。
具体的には死者数が50名未満ならば州警察、50名以上ならばFBIが指揮権を持つ事となる。

2017年、ラスベガスで銃乱射事件が発生した。
単独犯による銃乱射としては史上最悪となる死者60名、負傷者400名以上の大惨事だった。
当初から日本でも大きく報じられたのだが、その被害者数の報道の様子が少しおかしかったのだ。
ホテルの32階と言う高層階から音楽フェス参加者に向かって1000発以上の銃弾をライフルで撃つと言う凶行により、時を追う毎に報道される死者数は増え続けて行った。
だが、死者数が49名になった所で死者数のカウントが止まったのだ。
被害者数の多さから、被害者は地域の複数の病院へ搬送されて行った。
この事情から、一元的な情報管理が難しい側面はあるものの、それでも死者数のカウントが数日間に渡って止まる状況は不自然極まりなかった。
さらに被害者の中にプロ野球の日本ハムに所属するレアードのいとこが含まれる事が分かり、緊急帰国する事になったとの報道が出た。
それまでの報道から49名の死者は名前も公表されていて、新たな死者確認がなされた経緯から、事件の規模感を示す意味でも節目となる死者数50名を超えたのだ。
にも関わらず、そのような見出しでの報道を私は見掛けなかった。

日本の報道は当局発表、及び現地報道の翻訳紹介が中心となる。
つまり、日本で死者数が50名を超えたとの報道がなされなかった理由は、単純に現地報道でもそのようには報じられなかったからだろうと見る。
そして、現地報道がそうなった理由は、州警察の意向と無縁ではなかったろうと推察している。
重傷者への懸命の治療を続けた結果として確定値としての死者数が49名で留まった期間が長くあったとの可能性もゼロではないが、レアードのいとこが新たに死者リストに追加されたのだから、死者総数の報道が49名で止んだっきりになっていた状況は説明し切れない。
州警察とFBIの間で捜査活動の主導権争いが背景としてあって、死者数に関する当局発表がしばらく停滞した結果、死者数に関する報道が不自然に止まったのではないか?
私はそう考えている。
(Wikipedia英語版でも確認してみたが、この辺りの事情を説明するような情報な何も得られなかった。
あくまで、当時の記憶とそれをどう解釈すべきかとの個人的洞察でしかないので、上記内容の信憑性についてそこまで期待しないでください。
可能性の一つとして、こう考えると報道の不自然さを齟齬無く説明可能だと言うだけであって、別の可能性も勿論あるのでそこは留意すべきです)

余談終わり、閑話休題。

上述のアメリカのケースを見ても分かるように、地方警察に対し、その上位組織として国家警察が十分機能するには、国家警察に捜査能力が必要不可欠だ。
都道府県警は当然のことながら、都道府県を縄張りとする。
この為、複数県に跨って発生した連続犯罪について、近隣県の犯罪認知を共有していないと言う単純な理由で把握が遅れ、他県警との連携捜査も行われない、なんて事がしばしば発生する。
犯罪者側もこの警察側の体制不備を十分承知で、敢えて類似犯罪を県を変えて行ったりする。
このような状況を打破する為に、広域的な犯罪捜査を最初から想定した警察庁内の捜査機関を早期に創設すべきだと個人的に考える。
民主主義が十分根付いた今の日本で、戦前回帰の思想警察的な捜査活動が行い得るとは到底思えない。
戦前回帰への忌避感を基に、過度に中央集権的側面を持つ組織の設立を回避するのは、逆に妥当性の無い判断だろう。

都道府県と国の関係性

特にコロナ対応では、国、厚労省が大枠の指針を出した所で、実際に動く都道府県側が勝手な独自解釈をゴリ押しする様子がたびたび見られた。
とりわけ、国との対決姿勢で「やってる感」を出す事に余念のない東京都知事に関してはそれが顕著だった。

傍から見れば問題の多い行政判断であっても、東京都側が「こうやります」と言ってしまえばそれを国が覆す事は非常に困難だった。
これが都道府県と国の関係性をよく表している。

確かに行政の方向性に関しては、時の政権、官庁街である霞が関の意向で決まるものだが、それは各種行政サービスの実施に至るまで、国が全面的にカバーし、現場に口出し続ける事とは全く異なる。
逆に、行政サービスの現場を差配する権能を渡した部分に関しては、余程の事が無い限り現場のやり方を変えるよう直接的に指導する事は難しいのだ。

コロナ対応では事ある毎にマスメディアは政権批判を繰り返した。
だが、実際に患者を受け入れる病院、濃厚接触者の隔離用ホテルの手配などは都道府県に任せるしか無かった。
何故なら病院もホテルもその自治体内にある訳で、それがどの程度の患者を受け入れ可能なのか、受け入れ可能施設の増減など含め、現場の状況変化は現場の自治体側が一番詳しいからだ。
なので、感染症対策では最初から国として直接的に出来る事は限られていて、実務の大半は地方自治体側、都道府県の仕事なのだ。
患者数の確認、患者の容体確認が各地の保健所を中心になされたのも、国が仕事を丸投げしたかのように批判の対象となったが、個別具体的な患者対応は各地の保健所の仕事だと最初から決まっているのだ。
ここを理解せず、何でもかんでも行政の不手際だとなれば事実確認も疎かに「国が悪い」一辺倒になるのは余りに筋悪の政治批判だ。
「時の政権批判の為にコロナを使っている」と言われても仕方ないし、事実そう言った側面は少なからずあったように見受けられる。

自然災害対応でも同じ事が言える。
巨大地震や豪雨災害で、どの地域が危なそうなのかなんて詳細な情報は国が一元管理している訳では無い。
個別の自然災害に対しては、地方自治体が被災地域について一番詳しいのが当たり前で、国は地方自治体から上がって来る統計的な情報を集計するだけの存在だ。
復旧復興に際しては国が主導して予算を確保しインフラ再建にあたったり、被災者への経済的支援、生活支援を行う事になるだろう。
国が期待されている役割は、このように最初から決まっているのだ。
ここを無理やり発災から復旧復興までを国が一元管理しろと言い出せば、結局のところ被災者の気持ちに寄り添った災害対応も難しくなるし、被災者の望む復旧復興と懸け離れた計画が進みかねない。

まとめ

日本のマスコミ報道では、政治批判については何でもかんでも
 「国が悪い」
一辺倒になりがちだ。

大きな枠組みでは確かに制度設計の不備、十分な法整備がなされてなかった等々、国の責任が少なくない事もあるだろう。
だが、今のマスコミ報道はあからさまに政府批判ありきに偏重していて、適切とは言えない自治体側判断について十分報じる事無く「国は何をやっているのか!」とばかり噛み付く始末。

これを年がら年中見せられ続ける国民もまた、判断の基準を正しく持つ事が出来ず、何か行政的な不満があれば何でもかんでも政府批判へと繋げてしまう。

 「国民にメディアリテラシーが足りない」
と言うよりも
 「メディアに政治リテラシーが足りず、それが国民にも蔓延している」
と言った方が現状をより的確に表している。

ネットでのファクトチェック、Xのコミュニティノートなどによって拡散された情報の真偽について、以前よりは単純な政府批判が拡散されにくくなってはいると思う。
だが、岸田政権がコアな保守層からそっぽを向かれた現状、党派を問わず岸田政権批判なら何でもありな空気が漂っている。

批判されるべきものは無論批判されて当然なのだが、岸田総理への個人的嫌悪が先に来る政権批判は制度の正しい理解を阻害する誹謗中傷に流れやすくなってしまう。

これから地震災害の復旧復興をどう行うかの話も出て来るだろうが、どのような話であっても個人的感情に流される事無く、真っ当な批判であるか自問する癖を忘れないでもらいたい。

批判出来れば何でも良い勢力は、常に国民の誤解を増幅する方向へ世論を誘導しようと画策するものなのだから。

<了>

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