「人命は地球よりも重い」とマスコミの関係(下)

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「在ペルー日本大使公邸占拠事件」の衝撃

1996年12月17日、ペルーの首都・リマにおいて、駐ペルー日本大使の公邸が左翼ゲリラに占拠される事件が発生した。
事件を起こしたのは、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)のメンバー14名。
天皇陛下(当時。現在の上皇陛下)の誕生日である12月23日を前に、一足早い天皇誕生日のレセプションが開かれており、これを狙った犯行だった。
人質となったのは、当時の駐ペルー日本国全権大使である青木盛久氏を始めとする日本大使館員、ペルー政府要人、各国の駐ペルー特命全権大使、日本企業のペルー駐在員ら622名と相当規模の大きな人質立て籠り事件となった。

MRTAの要求は以下の4つ。

  • 逮捕・拘留されているMRTAメンバー全員の釈放

  • 安全な脱出と人質の同行

  • アルベルト・フジモリ政権による新自由主義的な経済政策の全面的な見直し

  • 戦争税(身代金)の支払い

そうして彼らは目的を果たさんと長期に渡って立て籠もりを続ける事になる。

中南米に関する基礎知識

「左翼ゲリラ」とは、革命的社会主義思想に基づくゲリラの事だ。
多くは国家体制の転覆と、それに伴う共産主義革命の実現を掲げ、その実現の為に暴力行使をも厭わない。
無論、それは現在の統治体制にとって、犯罪者集団と言う事であり、基本的にはその活動全般を厳しく取り締まる事になる。
何故「基本的には」と条件を付けたかと言うと、中南米には反米・親共産圏の武装ゲリラが数多く存在するのだが、一定程度の支持基盤を得た後に暴力的革命実現を放棄した上で政治勢力として合法化組織へと転ずる事もあるからだ。

中南米に左翼ゲリラが数多く生まれる理由

中南米全体に対し、「アメリカの裏庭」と表現する事がある。

アメリカ合衆国における南北戦争とは、

  • 工業的発展を背景に”都市労働者”を求める北部

  • 大規模農業を土台とした”黒人奴隷”を求める南部

の立場の違いが相容れない程強まり開戦に至り、北部勝利で決着した。
リンカーンによる「奴隷解放宣言」は南北戦争中の1862年9月に出されたものだ。
この結果、アメリカも産業革命以降に工業化を大いに発展させて行く。
資本主義経済の結果として南北アメリカで最大の経済発展を遂げ、アメリカの資本は中南米諸国に投下されて行く。

ここで、工業化の遅れた地域に対しては巨大な資本によってプランテーションが作られ、モノカルチャー経済の非常に不安定な経済体制が作られ、貧富の差が途轍もなく拡大して行く。
アメリカ合衆国の大資本家の意向によってその国自体の経済が揺らぐ程、資本主義による経済支配が行われた。
この経済的苦境が資本主義への反発、アメリカ合衆国への不満として国民に広く共有され、社会主義革命思想への憧憬が生まれてしまう。
実際の社会主義国には政治的自由も経済的自由も両方無い上に、平等すら実現しない歪な社会システムだ。
だが、カネに物を言わせるアメリカ資本主義の結果として生まれた貧困層は、経済的不平等への不満からアンチ資本主義に流れやすくなる。
アンチ資本主義はそのまま反アメリカ的国民感情に結び付き、社会主義経済への期待によって左翼ゲリラを許容する大衆的な空気が醸成されてしまったと言う事だ。

「バナナ共和国」と呼ばれる中南米の小国群

アメリカなどの巨大外国資本の投下によって、国全体が単一作物へ依存するモノカルチャー経済となってしまった小国を指して「バナナ共和国」と呼ぶ事がある。

共和国は英語で「リパブリック」。「バナナリパブリック」と表現すると、同名のファッションブランドが存在する為、日本語検索だと引っ掛かりにくいかも知れない。

「バナナ共和国」の表現は、その国の経済発展の後進性を示すモノでもあり、侮蔑的表現として認識される事が少なくない為、特定の国家について表現する際には注意が必要だ。

2020年のアメリカ大統領選挙における選挙結果に不満を募らせたトランプ支持勢力が、2021年1月に連邦議会議事堂を襲撃した事件が起こったが、これに際してブッシュ元大統領(息子の方のブッシュ)が
 「これはバナナ共和国で起こるような事件で、民主主義国家の姿ではない」
と非難した。
ブッシュ元大統領は元から失言の多い政治家であり、その資質について常に問われるようなタイプの大統領だったのだが、上記の彼の発言にアメリカ国内における「バナナ共和国」への標準的な見方がよく表れている。
また、ファッションブランドとしての「バナナリパブリック」に対しても、やはり侮蔑性を感じさせるとの理由で批判があるようだ。

アメリカ合衆国からのこのような侮蔑的な見方に対し、当然反発は起こる。また、社会主義へと傾倒する自国政府に対し、アメリカ政府は直接・間接的に圧力を掛け、アメリカ的民主主義国家へと無理やり誘導しようとする。
このような無理強いが更なる反アメリカ感情を強化してしまう。
一度強烈に反米に振れたバナナ共和国では、アメリカ政府の圧力で経済的困窮に追い込まれ、更に反米感情が高まる負のスパイラルがしばしば発生する。

経済的に立ち遅れた事から民主主義政治がなかなか成熟せず、その中で政治権力を握る者はほぼ全て金権政治、国家経済の私物化へと走ってしまう。
汚職と政治腐敗が常態化し、極端から極端へと政治体制の変動が起き、政治も経済も不安定な状況が続く。
そして、ポピュリズムに走る過激な政治勢力が台頭し、継続性の怪しい国民へのバラマキ政策を掲げて政権の座に就き、案の定、財政破綻を引き起こし、国家経済全体が一気に凋落してしまう。
富の蓄積が機能しない為、外資頼みの経済体質が継続するが、外資は世界経済縮小のタイミングで資本の回収に走り、弱小国の国家経済は「外資の逃避(これをキャピタルフライトと呼ぶ)」によってまたも不安定化してしまう。

このような政治・経済状況が続けば、資本主義社会への疑問を抱くのは当然だろう。社会主義革命を志向する左翼ゲリラに対し、それに期待する国民が一定割合存在するのは至って自然な事なのかもしれない。

「在ペルー日本大使公邸占拠事件」への日本の対応

ペルー大統領、アルベルト・フジモリは日系人であり、日本国籍も保有していた。
1985年に国籍法が改正され、基本的に二重国籍は認めないよう制度が変更されたのだが、それ以前に二重国籍状態になっていた在外邦人に関しては、自ら進んで手続きを行わなければ「日本国籍を選択したものと見做す」と規定された。フジモリ大統領はこれに該当する。彼のように潜在的な二重国籍状態の在外邦人は未だに多く残っていると見られる。
アルベルト・フジモリ氏は大統領選挙出馬に際して「日本国籍は放棄した」と公言していたようだが、後に各種不正への追及から逃れる為に来日し、そのまま日本滞在を続ける。その最中、フジモリ氏の国籍に関して日本国籍を有している事が国会質疑の中で明らかとなり、大統領選挙時に語っていた「日本国籍放棄」が嘘であったとバレてしまう。
ちなみに、「日本国籍を持っているならば」と国民新党の亀井静香代表から依頼され、2007年には参議院議員選挙に出馬までしているが、この時は落選で終わった。

「日本大使公邸占拠事件」はフジモリ大統領時代の出来事であり、それまでより格段に日本とペルーの二国間関係が深まっていた。
そのような中で突然起こったテロ事件は、日本を大きく揺るがせた。

フジモリ大統領は政治家として対テロリズムで強硬路線を取っていた。
左翼ゲリラ摘発を強力に推し進めようとする余り、国軍の特殊部隊が左翼ゲリラと誤認して無辜の国民が犠牲になる事件が複数件発生している。
(そして、このような事件への対応について、不当な政治判断を行い、命令を出していた事などが後に問われ、国外逃亡せざるを得ない状況を生んでしまう)
この為、「日本大使公邸占拠事件」に対しても、多少の人質への被害が発生しても、テロリストを殲滅する作戦に打って出る可能性は当初から高いと見られていた。

だが、日本国内では「人質の人命優先」が強烈に叫ばれたし、時の橋本龍太郎内閣としても、「人死にが出る結末」だけはどうしても避けたかった。
一人でも犠牲者が出れば、日本のマスコミはその結果責任を日本政府、橋本内閣へと向ける事が明らかだった。
対テロリストであろうが、「武力による鎮圧」に対する野党・マスコミの忌避感は今よりずっと強かったのだ。
橋本龍太郎総理が「平和的解決」を強く望んだのは、当時の日本社会を考えれば当然の選択と言えるだろう。

日本の大手マスコミはペルー・リマに記者を派遣し、日本大使公邸周辺から連日、ニュース番組に生中継が入るほど報道が過熱した。
また、ニュース番組等で対左翼ゲリラへどのように対処すべきか?と言う議論が繰り返し行われた。

左派マスコミが現実主義的にならざるを得なかった事情

(上)で語ったように、ダッカ事件の日本政府の対応、超法規的措置によって何より人命優先の判断を行った事について、日本においては長らく好意的な評価が続いていた

だが、国際的には対テロリズムで「安易に妥協する事は、次なるテロ事件を誘発してしまう」との立場から、多少の犠牲を承知で武力による鎮圧を判断する事が次第と国際標準化して行った。

日本国内では警察官による被疑者への発砲1発ですら、その妥当性云々で何日にも渡って重大事件かのように報道するスタイルが当たり前にあった。
それが警察官の銃器使用への委縮へと繋がり、凶悪犯から襲われた被害者の命も救えず、駆け付けた警察官までもが命を落とす事件が発生してしまう有様だった。
警察の制止にも拘らず凶器を手放さないような相手に対してだろうが、威嚇射撃を行う事すら忌避せよと言うのがマスコミの姿勢から窺える。
それほどまで、公権力の実力行使を絶対的に阻止したいのが日本の野党勢力であり、日本のマスコミなのだ。

それが、「在ペルー日本大使公邸占拠事件」の発生によって、大きく事態が変化する。
「武力行使はどのような形で合っても認めたくない」左派マスコミは、現実に向き合う必要に迫られたのだ。
日本国内で発生した事件ならば、左派界隈にとっては「警察が銃器を使って突入し鎮圧する」との現場判断に対し、事情も考慮せずとにかく徹底的に非難すれば済む話だった。
警察を批判し、それを許可した公安委員長を批判し、内閣、政権与党を非難する。
それだけで良かった。

だが、この事件においては実際に事件への対処を行い、突入するかどうかを判断するのはペルーの警察当局であり、ペルー政府なのだ。
日本の左派界隈は、日本政府を批判する事は朝飯前だが、他国政府への批判には国際協調主義、国際親善を最大限求める建前がある為に、慎重にならざるを得ない。

しかも、同種の事件に対し、ペルー政府が強硬姿勢を取り続けて来た事も調べればすぐ分かる話だ。
「絶対に武力鎮圧は許されない」と声高に主張すれば、実際にそれが行われた後、ペルー政府、及び警察・軍当局を非難しなければ整合性が取れなくなる。
それはどうしても避けたい展開だ。

そうして、日本のマスコミ報道の中で
 「国際標準としての対テロリズム対処」
 「武力による鎮圧の判断がなされる事も致し方ない」
と言う現実主義的な主張が頻繁に語られるようになった。
皆が皆、武力鎮圧賛成となっていた訳では無いけれども、現実的な対処として認めざるを得ないとの論調が主流となり、少なくとも絶対非難されるべき愚行と言うような論調はほぼ見られなくなった。

橋本内閣としては外務大臣を派遣してまで、ペルー政府に「平和的解決を」と要請し続けた。だが、事件の長期化がペルーの内政にとって不安定材料となってしまう事情もあり、フジモリ大統領は武力鎮圧に向けた準備に取り掛かる。

ちなみにこの間、テレビ朝日系列の広島ホームテレビの取材チームが、大使公邸への立ち入りを試みて騒動を起こしている。
 「MRTAの声明を取材し、それを全世界に発信する」
との条件で取材を申し込んだのだが、MRTA側に断られて終わった。
これに対し、人質のみならず取材陣の人命を危険に晒す行為として、日本・ペルー両政府のみならず、世界各国の報道機関からも非難の声が上がった。
当初、テレビ朝日は沈黙でやり過ごそうとしたが、高まる批判の声に社長が謝罪するに至る。
このテレビ朝日の取材姿勢、またその後の対応にも、日本のマスコミにおける対テロリズムへの認識の甘さが滲み出ている。
「話し合えば分かり合える」との甘っちょろいヒューマニズムに酔い、自身も他者も危険に巻き込む行為を安直に取ってしまう。
そして、その正当性を確信しているが為に批判されても直ぐさま謝罪出来なかったのだ。

ペルー政府としても、人質となった他国要人に被害が出る事は望ましくはなかった。
MRTAも余りに多い人質は負担にしかならない事もあって、赤十字国際委員会の仲裁を受け入れ、老人や子供、病人などを次々と人質解放して行った。
当初600名を超えた人質は、最終的に70名ほどまで減少した。
このような状況もあり、ペルー政府とMRTAの直接交渉が複数回持たれた。
更に、収監中のメンバーを含め、MRTAメンバーをキューバに亡命させる案も検討され、キューバのカストロ議長はこれを了承したものの、MRTA立て籠もりメンバー側が受け入れずご破算となった。
こうして、ペルー政府は武力鎮圧の最終的な判断を行う事となる。

大使公邸に向かって秘密裏に掘られた複数のトンネルを用い、爆弾を使って建屋の一部を破壊する形式で、トンネル及び正門から特殊部隊が突入した。
人質1名が流れ弾によって亡くなり、突入した軍人2名が殉職、立て籠もっていたMRTAメンバー14名は全員死亡した。
(この時、MRTAの一部は投降の意思表示を行ったものの超法規的殺人によって処刑した疑惑によって、後にフジモリ大統領は訴追される事になる)

福田首相「人命は地球より重い」発言が”何時の間にか”評価されない時代へ

先にも述べたように、日本のマスコミは長らくダッカ事件の日本政府の対応を好意的に評価していた

最近は余り見掛けなくなったが、古い時代のテレビ映像を数多く集めた
 「テレビが映した世紀の瞬間」
と言ったタイトルの特別番組は頻繁に放送されていた。
その中で、ダッカ事件で人質が解放される瞬間の映像とセットで、福田首相の「人命は地球より重い」発言を人道的で評価すべきものとの立場でナレーションが付けられていたものだった

それが、この「在ペルー日本大使公邸占拠事件」を契機にして、福田首相発言を積極評価する表現がマスコミ報道からぱったり消えてしまった
国際標準化されていた対テロリストへの強硬姿勢を、ある程度日本のマスコミが受け入れざるを得なくなった為だと私は考える。
大使公邸占拠事件への武力鎮圧を徹底批判するような報道を行えなかった以上、対テロリストの対処法としての強硬姿勢を今更否定しようがなくなり、なし崩し的に福田首相発言も「人道的観点から適切なものだった」とは言いにくくなったのだ。

私が一番問題だと思うのは、マスコミがかつて取っていたスタンス、及び今現在のスタンスについて、何らの総括も行っていない点だ。
国家による対テロ対処について、マスコミの視点は明らかに変化した。
にも拘わらず、この点について視聴者・読者に対し、誠実にメディアとしての姿勢を開陳し、説明したところは一つも無い
”いつの間にか”スタンスが変化してしまったのだ。

現実主義の立場を取る私にとって、マスコミが現実主義的な方向にスタンスを変えた事、それ自体は歓迎すべきものではある。
だが、何故スタンスが変わったのか、過去の自分達について語ろうとしない姿勢は、自己都合だけで論調を変え、視聴者・読者を置いてけぼりにした不誠実な態度としか思えない。
メディアとしての責任に向き合い、視聴者・読者を「非暴力主義」的価値観へ誘導し続けた自分達の姿勢についても深く自省し、メディアとしての総括を目に見える形で行い、それを表明すべきだったのだ。

日本のマスコミは、一貫して思想的に偏っていて、国家権力を忌避し、国家権力を背景とした実力行使には批判的な姿勢が先に来る。
その結果として武力鎮圧を回避したダッカ事件の福田首相をほめそやしたにも拘わらず、在ペルー日本大使公邸占拠事件を経てその過去を無かった事にしたのだ。

一国民としては、マスコミの欺瞞的体質を十分に意識しておかなければならない。
彼らは常に自らの思想に合致する方向へ、国民を誘導したがっている上に、その事によって発生する責任は決して取ろうとしないのだ。

<了>

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