レスバの作法を考える

投稿を始めて2か月。
有難い事に、今日初めて記事へのコメントを頂いた。
まぁ、私の主張に賛同出来ない旨のコメントではあったが、「反論を書きたい」と思う程に誰かの気持ちを揺さぶった結果と受け止め、取り敢えず感謝したい。

私は保守的立場からの意見表明を行っている。
だが、だからと言って、左派的思想の持ち主を敵視する事はしない。
相手が意見の違いを以て罵詈雑言を浴びせて来たのならば、それ相応の対処はするだろう。
しかし、その場合でも政治的スタンスを理由とした異論排除とならないよう気を付けるつもりだ。

他者の自由権の範疇にあるものについて、自分の思い一つであれこれ制限を加えようとしたり、全否定するような行為は、「基本的人権の尊重」に反するものであり、行うべきではない。

だが、ネットでもマスコミでも「意見が異なる」と言う事を容認出来ない人は少なくない。
意見が異なる相手に対し知性の問題を持ち出したり、常識が欠落していると一方的に決め付け、非難する人の多い事。

上のリンク記事で語ったように、
 「基本的にレスバは不毛な行為でしかない」
のが大前提だ。
やらないに越した事は無い。

その上で今回は、見ず知らずの相手とのレスバにおいて、より生産性を高め、有意義なレスバを実現させる為には、どのように振舞うべきかを敢えて考えてみる。


自分の論理的思考を出し惜しみしない

レスバが始まると言う事は、両者の間で見解の相違が発生していると言う事だ。

 前提
  ↓
 論理的展開
  ↓
 結論

において、「結論」が異なっている事だけは確実に分かっている。
だが、それ以外については「同じかもしれない」し「違っているかも知れない」。
つまり、
 「前提部分は同じだけれど、論理的展開が異なる」

 「論理的展開自体には異論がないけれども、前提が異なる為に結論に同意出来ない」
と言った可能性がある訳だ。

双方が同意出来る部分を共有すれば、それだけ言い争いする部分を減らせる。
その分だけ、レスバが短くて済む。
レスバの時間効率が上がるのだ。

レスバの不毛性についての解説において、「レスバの必勝法」を紹介した。
自分自身の意見を表明しなければしない程、レスバ自体には強くなれる。
自分のレスに関して自己矛盾を起こしたり、うっかり事実誤認に基づく発言をせずに済むからだ。

だが、レスバの時間効率を上げる為には、「如何にしてレスバに勝つか」を諦めて、自身の論理的思考を包み隠さず披露するべきだ。

また、こうする事で互いが相手の論拠、思考手順を知る事で、より相手の矛盾や事実誤認を指摘しやすくなる。
つまり、より早くレスバが決着すると言う事で、こちらもレスバの時間効率を上げるのに役立つ。

レスバ相手が提示した結論に対し、如何に自分が納得できないかを滔々と語るより、論理性について掘り下げ、論理的に妥当かどうかを討論する方が互いにとって時間を無駄にしなくて済むし、何らかの誤認をしていた側は妥当性のより高い結論を早くに受け入れる事が出来る。
場合によっては、双方の論理的思考を披露しあう事によって、双方が自身の論理の穴に気付き、両者の論理的思考を掛け合わせた新たな結論を導く事だってあるかも知れない。

いずれにしても、論理的思考を隠さないよう、言葉を尽くす事が双方にとってのメリットとなるのだ。
このメリットを最大限享受する為に、「レスバで負ける事」を恐れない気持ちが必要だ。
互いの論理的思考を披露しあうレスバであるならば、「レスバで負ける事」はより正しい論理的結論に辿り着けた事を意味する。
「レスバで負ける事」は自身の知的成長を意味し、寧ろ望ましい事なのだ。
こう理解する事で、レスバを有意義なモノへ変化させられる。

レスバの対象となるもの、ならないものを見極める

「感情」「情緒」はレスバの対象外

レスバは論理性を争うものだ。
つまり、論理の分野に無いものをレスバの対象とする事は、全く無意味だと言う事になる。
論理の分野に無いものの代表が「感情」「情緒」だ。

「感情」、「情緒」に関するレスバと言われても、ピンと来ないかも知れない。
流石にどんな感情を抱くかを直接言い争う事は不毛だと多くの人が言われなくとも分かっているだろう。
そう考えるのは自然な事だ。
実際には、論理的展開の一部分として「感情」、「情緒」が入り込んでいて、レスバしている当人たちがそこに気付かず、延々とレスバを継続してしまう事がある、と言う話だ。

第三者的立場から、誰かの言動について擁護したり非難したりする際に発生しやすい。
時系列的に並ぶ誰かの一連の行動に関して、「この時点でのこの発言は、このように解釈するのが自然だ」だったり、「ここでこのような行動を取るのは、悪意が無ければ出来ないはずだ」と言った形式だ。

第三者的立場からの検討と言う事で、「客観的にどう見えるか」を論じてはいるものの、結局は「それを受け取る側の気持ち」の領域から出る事は無い。
「自分としては、このように解釈した」
との言葉は意見表明でしかなく、それに同意出来ない人がいるのは単純に考え方が異なる事に起因する。
自分にとってはどれだけ奇異な受け止め方だったとしても、それを絶対的に否定する事は出来ないし、すべきではないのだ。

ただ、「どんな受け止め方であろうと否定し得ない」とは言っても、「その受け止めに従って意見表明を”公然”と行って構わない」と言う事にはならない。
ネット等で不特定多数に見られる状態で過剰な他者批判を行えば、名誉毀損等で刑事・民事で訴えられる可能性がある。
そのラインについて全く考慮出来ていない書き込みに対して、自制を促す行為はやっても良いとは思う。
まぁ、相手は分かった上でライン越えしてる場合もある為、注意されても止めないようなら書き込みでの対応は諦めるしかないだろう。当事者、もしくは警察へ通報するのも一つの手だ。

ここまでの内容を纏める。
先ずは
 「『感情』『情緒』に関わる内容ではレスバを試みない」
事が大前提。
第三者的立場から誰かの論評を行う際には、特にこの不毛なレスバが起こりやすいので注意が必要。
そして、
 「意見表明は最大限尊重すべきだが、それは誹謗中傷が容認される事とは異なる」
事を正しく理解する。
ライン越えへに対しては、レスバの範疇を逸脱しているものとして、直接的に関わろうとはしない事が肝要だ。

「思想・信条の自由」を正しく理解する

政治的な話題についてのレスバにおいて、しばしば「思想・信条の自由」を弁えないレスバが発生する。

自分にとって、全く理解し難い政治的主張を行う政党であっても、だからと言ってその政党支持者に対し、徹底非難するような事はすべきではない。
ここがいまいち分かってない人が少なからず存在するように思う。

どの政党を支持するかは、自身の「思想・信条」的に合致するかどうかで決めるものだろう。
そして、「思想・信条」に対してはその自由が憲法で認められている。
ここに安易に立ち入るべきではないのだ。

政党の結党理念だったり、中核的なイデオロギーに対し、様々な意見を持つ事は至って普通の事だ。
全く賛同できないと考える事も当然自由となる。
また、政党として主張する政策に関して、論理的な妥当性を考えたり、実現性について論評する事も構わない。
「言論の自由」があるし、批判する立場の「思想・信条の自由」もある。
その中で、政党支持者との間でレスバが起こる事は十分にあり得るだろう。
その場で論理的に如何にその考えが誤っているのかを徹底的に論じる事は、全く問題無い。

だが、そこでボロカスに叩きまくれたからと言って、レスバで負けた相手に政党支持を諦めさせる事は出来ない。
そこは相手の「思想・信条の自由」の範疇にあるからだ。

レスバを通じて、自身の信じていた「思想・信条」に対する考え方が揺らぎ、自主的に政党支持を変えるに至ったのならば何も問題は無い。
しかし、「レスバでまともに反論出来ずに終わった」事を以て、思想・信条に関して立場を変えろと要求する事までは出来ない。
 「反論は出来なかったが、それでも自分はこれが正しいと思う」
との立場表明に対し、やり込めた側は「論理的では無いな」と感じるだろう。それは自然な事だが、公共の福祉に反しない限り「思想・信条の自由」は無条件で認められるものだ。
「論理的に説明出来なければ認められない」などの条件など付いていない。
なので、相手の立場表明に対しては「そうなんですね」で終わらせるより無いのだ。

これは逆の立場になった場合を想像すれば良い。
特定の政策について、自分の支持する政党の考えに強く賛同していたとする。
その政策に関するレスバを挑まれたが、相手の論理武装が上回っていて、言葉に窮してしまった。
この時、「まともに反論出来なかったのだから、少なくともこの政策に関しては賛同する事を諦めろ」と言われたらどう思うだろうか?
自身では論理的な正しさを主張し切れなかったとは言え、最初に感じた政策的正しさをあっさり諦める事はそう出来ないだろう。

論理性を大事にしていればレスバに強くなるとは言っても、常勝になる訳じゃない。
レスバに負ける度、自分の中で正しいと感じた政策について諦めるしかない、との結論は明らかにおかしい。
と言う事は、レスバの勝敗によって政治的主張を諦めさせ得るとの前提がおかしいのだ。

このように、レスバで争えるのは「主張している政策の妥当性」や「その実現性」と言った論理の対象になる事柄までであって、思想・信条に関しては何を好ましく思うか?は対象外となる。
勿論、自分が正しいと確信した政治的主張、スタンスについて、論理的に説明し尽くせる方がより好ましい状態だろう。だが、論理的な説明能力が無ければ政治的主張、スタンスを表明出来ないとするのは、多くの人から政治的発言の権利を奪う事に他ならない。それは国民すべてに等しく一人一票を与え、自由意思で投票する権利があり、各種政治活動へ自由に参加する事が許される民主主義国家と相容れない考え方だ。

論理的思考力に自信がある人ほど、この方向でのレスバ、政治的討論の限界について軽視してしまう傾向があるように感じる。
また、この方向での限界を正しく理解すれば、政治的スタンスの異なる相手に対し、必要以上に攻撃的な言葉を投げ掛ける動機が大きく削がれる。
 「意見が異なる事は当然起こり得る事だし、レスバを通じて意見の違いが解消されなくて当然だ」
と最初から理解しておく事が、気持ちに余裕を持たせ、他者への寛容さ、意見の多様性を許容しやすくなるからだ。

まとめ

冒頭でも述べた通り、基本的にレスバは不毛な行為だ。
だが、生産性のあるレスバを考える事で、より論理的で妥当性のある結論の導き方に気付けたり、論理的思考で出来る事、出来ない事の限界を知る事も出来る。

この記事内にあるような考え方に基づき、意見表明を行い、自身の思考についてつまびらかに語るような人はそういないだろうし、もしいたとしてもそんなタイプだったらレスバに発展する事も無いだろう。

一人でも多くの人が論理的な正しさに従い、ネット上でのやり取りをより生産的なモノにする為、思考するような時代が来てくれる事を祈るばかり。
まぁ、難しいだろうなぁ。

<了>

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