レスバの不毛性を論理的に分析する
「レスバは時間の無駄だよ」
と言われれば、
「いや、んな事、言われんでも分かっとるわい!」
って人も多いとは思うのだけれど、一応ね。
レスバの本質的な意味を掘り下げ、何故無駄だと言い切れるのか、改めて言語化しておこうと思う。
レスバは用法・用量をきちんと守り、依存しないよう注意しよう。
そもそも「レスバ」とは?
「レスバ」は「レスバトル」の略だ。
ネット掲示板において、特定の話題について一連の書き込み総体を指し示す言葉が「スレ」、一つ目の書き込み以降になされる書き込みが「レス」となる。
「スレ」は「スレッド」の事で、英語の「thread:糸」が由来。英語的には「縫い糸」、「脈絡」との意味があり、それが転じてネットスラングとしての「スレ」になった。
「レス」は「レスポンス」の事で、英語の「response:反応」が由来。「返事」「返答」を指す。
SNS全般に関しては、元となる投稿とそれへの返信について、それぞれ別の単語が用意されてたりする。
例えば、twitterなら元投稿はtweet(ツイート:つぶやき)で、それへの返信はreply(リプライ:返信)となる。twitterは現在Xになったが、元投稿はpost(ポスト:投じる事)で、返信はreplyのままだ。
この説明を書いていて改めて思ったのだが、「X」一字って視認性が悪く、本当使い勝手が悪い。
イーロン・マスク、無いわー、マジ無いわー。
話を戻すとこのように、「スレ」と「レス」の表現が設定されてない環境でも、ネット上のやり取り全般について「レス」との表現が一般的に使われ、投稿内容に関してなされる言い争い全般を「レスバ」と表現する。
投稿者がリアルな名前を明かしたアカウントや個人名を明かしてる訳ではないくても固定アカウントとして言論活動を行っている人の場合、彼らが激しくネット上でやり合う事も「レスバ」の範疇ではあるのだが、それは自身の発言について間違っていれば批判され、表現者としての価値を損なうと言う点でネット上の発言であっても、無責任ではいられない。
そのような人達の「レスバ」についても、議論の深め方がなってなかったり、互いの言葉尻を捉えた批判の応酬に終始し、生産性が無い事も多いのだが、今回は特に匿名性の中で行われる「レスバ」について考える。
匿名性の下、行われる「レスバ」の生産性が極めて低い理由
最大の要因は、基本的に誰も「対話に生産性を求めていない」、これに尽きる。
普段、我々が現実社会において他者と言葉のやり取りを行う時、どのような事を考えているだろうか?
まず、「必要性」があって会話を行うのならば、「目的に合致した情報をお互いにやり取りする」事になるだろう。
だが、「その目的以外に関して、話す意味を見出せない」とまで振り切った考え方をする人はかなり少数派だろう。
業務上必要なやり取り以外でも、人間関係を円滑に進める意味を求め、必ずしも必要性の無いやり取りを行う事は一般的に行われる行為だろう。
天気の話題、健康の話題、家族の話題、スポーツの話題などなど、やり取りしなくても良い話題を振りつつ、「貴方に対して全く興味が無い訳じゃない」「出来る事ならお互いに気持ち良く仕事をする為に関係性を良好にしておきたい」との雰囲気を込めた会話を行う。
どうしても相手からの返答が欲しくて聞く訳では無いが、それが両者の関係性に何らかのプラスをもたらす事を期待して会話する訳だ。
その意味で、会話の内容自体に必要性が無い場合でも、結局は人間関係へのプラスを期待して「必要性」を求めた会話をしている事になる。
一方で、匿名性の高いネット空間において他者とやり取りを行う時はどうだろうか?
「面白いな」「興味深いな」と感じた書き込みに同意する書き込みを行ったり、逆に自分が「面白いな」「興味深いな」と思った事について(時に賛同者が現れる事を期待しながら)書き込みを行う。
疑問に思った事を不特定多数の人に投げ掛けたり、そのような疑問に回答をしてあげる。
日常の些細な出来事について報告したり、それを見て反応を寄せる。
様々な喜怒哀楽について書き込みをし、それを見た人が反応し、さらにそれに反応し……と言った形式でやり取りが続いたりする。
不特定多数へ向けての情報発信だから、書きっぱなしで終わる人もいれば、反応をひたすら待ち、返って来た言葉に返信する所までを楽しむ人もいるし、最初の書き込みにしてもその返信にしても、その時々でどのようなリアクションを期待するか、自分がどうリアクションするか、必ずしも決まっていないだろう。
基本、ネットのやり取りはどのような意図を以てなされた情報発信なのかが必ずしも明確では無く、何時何時までに反応する事を約束しながら書き込まれる訳でもない。
そういう意味で、匿名性のあるネットでのやり取りは全般的に無責任な色彩を帯びる。
顔を突き合わせている訳でも無いし、互いにどのような時間にSNSやネット掲示板に現れるのかも分からない。
そんな環境でなされる対話の相手に対し、「発言の責任」を期待する方がどうかしてるのだ。
基本、相手は「知的レベル不明」
ネットで相手の姿が見えないからと言って、相手を侮るのは褒められた態度じゃない。
何かの気まぐれ、時間つぶしでその道の専門家が書き込みをしてる可能性も無い訳じゃない。
ただ、そうは言ってもSNSやネット掲示板、ニュース等のコメント欄で出くわす匿名アカウントの多くは、自分同様の一般人である場合が多いだろう。
そのような相手と何らかの見解の相違を理由として「レスバ」に発展したとして、そこで相手から得られるモノなんて基本的に何も無い。
そこを掘り下げる前に、論理的に正しい結論の導き方を先ず考える。
「レスバ」に発展した時点で、自分と相手とで「導き出した結論」に違いがある事は明らかだ。
だが、相手がどのようにその結論に辿り着いたのかは、此方から聞いたところで明確に説明してくれるとは限らない。
異なる見解を持つ相手に対し、問答無用で「自分の方が正しいに決まっている」との前提に立つのは、理性的な態度とは言えない。
「自分としては正しい結論を導いたつもりでいる」事は別に悪い事じゃないが、自分の出した結論の方がより妥当性が高いとするには、相手の「前提」と「論理展開」を知る必要がある。
そして、その上で相手の思考の何処に間違いがあるのかを言語化し、指摘して初めて第三者的に見て、正しく論破した事になる。(相手が論破されたと認めるかどうかはまた別の話)
これを議論の土台として、双方理解していれば話が早いのだが、大抵そうはならない。
このような前提を正しく踏まえた相手なら、そもそも此方の言い分を正しく理解しようとする前段階で、食って掛かるような真似はしないのだ。
「レスバ」に陥った時点で、相手は此方の言い分を正しく把握しようとのモチベーションがまるで無い事が明らかだ。
つまり、「レスバ」が始まった事自体が、「このレスバを通じて、此方が新たな知見を得られる可能性は限りなくゼロに近い」の確定演出となる。
レスバでとにかく「勝ち」に拘る人達
私個人は、自分自身の導き出した答えにある程度の妥当性があると確信してはいるものの、それが絶対に正しいはずだと言い切るほど傲慢では無い。
(確信が無い場合は、「こういう事ではないのか?」と尋ねる事から始める)
異なる意見を持った相手が、自分の見落とした論点を踏まえ、より高い妥当性を備えた結論に辿り着いている可能性は十分にあり得ると考える。
なので、相手が「レスバ」する気満々であっても、一応、相手の「前提」と「論理展開」を聞く姿勢は常に持とうと努める。
また、此方側の思考の「前提」と「論理展開」について、極力情報を包み隠さず披瀝(ひれき)する事を心掛ける。
だが、多くの場合、好戦的な「レスバトラー」は自身の前提、論理展開を詳しく語ってはくれない。
更に、此方側の情報提示に対し、「長文で威圧して来た」と解する人間が圧倒的に多い。
別に私が挑発的な文言を入れ込んでる訳でもないのに、「長文」イコール「攻撃的」と見做す人の多い事。
議論を行うつもりもなく、異なる意見を持っている相手を攻撃し、言い負かす事だけを目的とした人が多い。多いと言うか、そんな人しかいないのだ。
長文と言っても、私は自分の前提、論理展開を晒す意味で、それらを順番に並べてるだけだ。
私が何故その結論に至ったのか、手の内を明かしてるに過ぎない。
前提を示しているので、少なくともググればその正誤については簡単に知る事が出来る。
また、順序立てて論理展開を示している(そして、長文になる理由は相手が何処まで理解しているか分からない為、説明過剰気味の為)ので、読む気になれば文章量に比べて真に論理展開の骨格となる記述内容は、それ程多くは無い。
論破とは、相手の前提や論理展開の瑕疵(かし)を突き、その結論の妥当性を打ち砕く事を指すのだから、「相手を言い負かしたい」と思って「レスバ」を仕掛ける人に取ってみれば、攻めどころを教えてもらっているも同然だ。
にも拘らず、内容を精査するでもなく、論理的妥当性の観点で反論を試みるでもなく、「長文乙」だの長文を書いた此方の姿勢を疑問視するような人ばかりなのだ。
彼らが拘っているのは、「論理的な正しさ」じゃなく、兎に角「目の前の『レスバ』に勝つ事」だけだ。
「レスバ」の必勝法
「レスバ」について極力勝ちたいと思っている人に必勝法を教えると、
「自分は極力語らず、相手にばかり喋らせるよう誘導する」
「同じような話を繰り返しループさせる」
になる。
これを知ってるかどうかで、勝率は大きく変わって来るだろう。
「レスバ」で負けるのは、提示した情報に論理的矛盾が発生してしまった場合だ。
つまり、どうしても負けたくないなら「徹底して此方側の情報提供を絞る」のが一番なのだ。
そして、逆に相手にはとことん語らせる。
それも、相手の話を引き出すように、相手の話に対して何一つ分からないとの姿勢を取り続けながら、「相手に同じ話を延々と繰り返させる」のだ。
こうすると、相手は「論理的反駁は出来ないのに、負けを認めない哀れなヤツだ」と舐めてかかるようになり、不要な事を言いやすくなるのだ。
如何に自分の説明が正しいのかを示そうとして、余り適当ではない具体例を引き合いに出して語り出したなら、完全に相手の術中にハマってしまってる。
途中まで論理的な正しさを固守していたとしても、ある時点で不適当な論理展開を見せてしまったが最後、「レスバの勝敗にだけ拘る」ような人にとってみれば、鬼の首を取ったように責め立て、「全面的に負けた事にされる」のだ。
途中までの論理的正しさなんて関係無い。一つでも論理的正しさを逸脱した話をしただけで、その全てが間違っていたかのように結論付けられる。
一応断っておくが、私は理性的な議論と懸け離れたこの手の議論風のやり取りに執着する程、馬鹿では無い。
論理的な正しさに自信がある人が、ほぼ勝ちを確信した中で要らぬ一言を発し、足を掬われる様子を何度も見掛け(基本、レスバが終了した後)、その相手側がどのようなスタンスで議論に望んでいるのか観察する中で、彼らの「論破」法に気付いたと言う話だ。
そこに初めて気付いた時、心底「くだらない」と思った。
「レスバ」の必勝法に拘る人間とは、関わるだけ無駄なのだ。
「情緒」と「理性」の領域が分からない「レスバトラー」
自分が遭遇したレスバトラーの中には、「議論の対象となるもの」「ならないもの」の区別すら付かない、しょうもない人間もいた。
「レスバ」の結果だけを求めるタイプには、議論を吹っ掛けている風に見せながら、自分にとって都合の良いゴール設定を試みる者もいる。
一番「これは酷い」と思ったのが、「さぁ、お前の言葉で、俺の気持ちを変えて見せろ」と言う勝負を仕掛けて来た人間だ。
此方が「論理的にはこれが妥当な結論だと思うよ」と言った事に対し、「いいや、俺は納得しない」と返し、言い出したのが上の勝負だ。
ゴールが相手の情緒の時点で、議論でも何でもない。
「こんな勝負の仕方で今まで相手してもらって来たんだろうか……?」
と本気で可哀想に思った。
第三者的な視点で見た時に、妥当性の高い話になっているかどうか、が議論の対象になるモノであって、そのをどのような気持ちで受け止めるかは個人の自由だ。議論の結果として「このような感情になるべき」と結論付けられる訳が無い。
こんな単純な話ですら理解出来てないようなのが、「レスバ」を吹っ掛けて来るのだ。
「情緒」と「理性」の問題以前に、「知性」の方に問題があるとしか思えない。
対話がまともに成立するだけでも、「レスバトラー」としてはマシな部類と言える。
議論の前提を理解しないまま、結論だけを振り回す”善意”の人々
上述のようなしょうもない「レスバトラー」以外でも、ネット空間には悪気無く生産性の無い議論を吹っ掛ける人が大量にいる。
行政改革、地方創生などに尽力している「八田達也」と言う学者さんがいる。
行政組織は前例主義に囚われ、時代変化に取り残された古い制度に固執する事がまま起こる。
古い制度を変える為に政治家が働き掛けるが、古い制度であればある程、それが何故必要かのロジックが強固になっている事、また、その職掌範囲における他の制度との整合性、バランスについては官僚組織の方が十分に理解している為、ただ一つの制度を変えようと政治家が幾ら躍起になったとしても、なかなか言い負かす事は難しいのだ。
そういう官僚組織に対し、行政改革を推進する立場から提言を行い、行政改革を志向する政治家にレクチャーを続けて来たのが八田先生だ。
この八田先生に対し、あらぬ方向から妥当性も何も無い非難が届くようになる。
安倍政権における「岩盤規制の撤廃」に協力した事が原因だ。
安倍政権下で「岩盤規制」がやり玉に挙がったのは、別にそれを新たな利権の温床とする為ではない。
合理性の無い規制は極力取っ払い、自由競争原理を導入してトータルで国民にとって望ましい環境を実現する為だ。
だが、野党、マスコミは安倍政権下でなされる全ての行革に対し、
「恣意的運用を試みている」
「特定の人達に恩恵を与える不公平な政治だ」
とその実態と懸け離れた「安倍批判」に奔走するようになった。
その結果として、「岩盤規制改革を推進すべき」との立場で協力していた八田先生に対してまで、批判の対象とする議論が発生してしまったのだ。
反自民の野党だって、行革議論に詳しい議員なら八田先生を個人的利権を狙うような俗物だなんて思っていないはずだ。
にも拘らず、党内の反アベ的言論に水を差さないよう、八田先生への批判をスルーしてしまい、その空気に影響された市井のリベラル系国民が八田先生に対し強い不満を抱くに至ったのだ。
八田先生は個人的なブログにおいて行革関連の話題を日常的に投稿していて、コメント欄も解放していた。
そこに議論を吹っ掛ける気満々の人達が現れるようになる。
最初は相手の知識の水準を測りながら丁寧に返信を投稿していた八田先生だが、どれだけ丁寧なやり取りをした所で、新たな記事に登場する新たなレスバトラーはそれまでの議論を全く読んでおらず、また一から議論を吹っ掛ける。
これがしばらく続いた後、八田先生は「思った以上に時間が取られるので」とコメント欄を閉鎖してしまった。
この経緯を見ていた私は、本当に理不尽な事だと強く思った。
「安倍政権が何故岩盤規制を取り除こうとしているのか?」
について、マスコミが殆ど正確な情報を報じないが為、自分自身を正義の人だと思い込んだ連中が、規制改革に真摯に取り組んでいる教授を攻撃対象としてターゲットしてしまったのだ。
教授のブログに対するコメントと言う事で、そこまで露骨に攻撃的な表現を使う人はいなかったと記憶しているが、それでも「この教授は正しくない事をしている」と確信した一般人を相手に何日も何日も言葉を尽くし対応せざるを得なかった八田先生の心中は察するに余りある。
直接顔を合わせる機会がある相手だったなら、その道の専門家である八田先生に対し、このような不躾な質問攻勢など出られる訳がないだろう。
それが、ネットを通じてなら簡単に出来てしまう。
問われて当然の行為を行っているならまだしも、後ろ暗い事など何もない教授に対し、一方的に悪感情を募らせた相手が「貴方は間違っています」と言う為に次から次へと湧いて来るのだ。
彼らは自分が信じた結論を兎に角「絶対的に正しいはずだ」と思い込み、それ以外の情報の妥当性を冷静に客観的に考慮することが出来ない。だからこそ、このような不躾な真似を平気で行ってしまう。
レスバを仕掛ける事を楽しむ連中も同じだ。
自分の結論を「絶対的に正しい」と信じ、異なる意見を語っている時点で「相手は愚かな者に違いない」と確信し、喧嘩を吹っ掛けている。
そこには相手への敬意も無ければ、知的探求心も無い。
論理性の検証も疎かに、傲慢さを嬉しそうに披露する愚か者か、意味の無い勝敗に拘りくだらない言葉遊びに興じる暇人しかいない。
彼らが何かの役に立つとすれば、それは
「人間、こうなってはお終いだな」
と他山の石として活用されるくらいだろう。
「レスバ」はこのような理由で、「時間の無駄」でしかないのだ。
<了>
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