視点提供録 vol.821:芸能事務所の対応がいいのかもしれない
2015年8月、「一橋大学アウティング事件」という事件がありました。事件の詳細は割愛いたしますが、「ゲイの大学院生が同級生に同性愛者であることを暴露(アウティング)されてしまい大学の校舎から転落死した事件」です。そして、本日は両親が大学側に賠償を求めた訴訟の控訴審判決の日です。私は法律の専門家ではありませんので、一審の判決・二審の判決にたいして法律的に正しいか正しくないかを述べるつもりはありません。今回、私が当てたい焦点はこちらです - 「大学は本来何をするところなのか」 - ということ。
文部科学省のホームページに『学校教育法』の抜粋が載っています。大学の目的が書いてありますので全文載せてみます。
【学校教育法】
第五十二条 大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。
とあります。端的に言えば、「学問をするところ」ではないでしょうか。訴状を読んだわけではないため正確なところはわかりかねますが、原告は「大学側の対応が不十分だったのが原因」と考えているようです。つまり、「学問以外にも大学は対応しないといけない」という背景が見え隠れするように思います。これについて、死を軽く見ているわけではありませんが、「学問と関係ないところは学生同士で解決してほしい」と個人的には感じています。仮に、今回のアウティングについて大学が学生に教えるとします。おそらく、オリエンテーションで職員の方が講義することになるのでしょう。ただ、この講義の姿を想像すると、「大学がこのような講義をしなければならないのは悲しい。何か違う」と感じるのは私だけでしょうか。
他の事例でも考えてみましょう。最近は聞かなくなったように思いますが「弊社の従業員が『プライベートで』不祥事を起こしまして申し訳ございません」と役員が頭を下げるようなもの。「大学や会社は学生や従業員にたいして24時間責任を負わないといけないのか」と息苦しさを感じられますが、いかがでしょうか。芸能人の熱愛発覚などで所属事務所のテンプレート回答の「プライベートはお任せしています」の方がよっぽど自然に思われます。
では、これらの真因はどこにあるのか。具体的には、「学術的・業務的能力ではなく人間性の教育は誰がするのか」。おそらく、「親の教育力不足」ではないでしょうか。「やっていいことはやっていい。やっていけないことはやってはいけない」このような教育が親ができないことが大きな原因かと思います。
「学校や企業が何でもしてくれる」という姿は本来の姿ではないように思います。「学術的・業務的教育」と「人間性教育」の前提となるの役割分担が大切かと思います。皆さまはいかがお考えでしょうか。