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視点提供録 vol.814:「日本モデル」という言葉の違和感の奥にあるもの

昨日、緊急事態宣言が全国で解除されました。まずは緊急事態宣言が解除できる段階になり一安心というところでしょうか。とはいえ、治療薬も開発されておらず、第2波の可能性もあります。経済の回復もまだ時間がかかることでしょう。まだまだ油断禁物のことと思われます。

さて、昨日の首相会見で「日本モデル」という言葉が出てきました。「収束させることができたのは『日本モデル』の成果」というメッセージだと思います。ただ、ふと思いました。そう、記憶を振返ってみても「日本モデル」という言葉を見聞きした記憶がありません。調べてみようとインターネットで検索しても「日本モデル」という言葉がヒットしない。どうやら言葉はあれど実態がないようです。だからでしょうか、「何もしていないのに成果だけ強調するな」という反応も見受けられます。たしかに、何を行ったのかわからない(「日本モデル」という言葉に忠実に従うならば、明確に存在していないため何もしていないということになるのでは)にもかかわらず結果が出ているとするならば、棚からぼたもちの成果とも言えなくはないでしょうか。元寇の神風が思い出されますね。それを自分の功績のように言われても違和感を感じられなくもないと思います。

では、なぜこの違和感を感じるのか。素人ながら考えてみたところ、ある仮説にたどり着きました。それは、「PDCAを回していないからではないか」ということです。計画を作り、実行し、検証し、改善する - あのPDCAです。これを今回の「コロナウイルス対応」という課題にたいして当てはめてみます。

P・・・なし。あるのかもしれないが、少なくとも明確な「日本モデル」はなし(調べ漏れがありましたらご容赦ください・・・)。
D・・・「何か」を実行。Pがないため言語化できず。
C・・・抑え込むことはできた。この事実は当然に評価されるものと思います。Pがないため検証はできず。
A・・・Pがないため改善できず。

もしこれが「日本モデル」という計画(P)を作り、実行(D)した結果現在の結果(C)になりました - これならば「日本モデル」の力だと思われます。ただ、この「日本モデル」というものは一連の対応で初見。これを「政府の実績」のように言われても違和感を感じるなと言う方が難しいと思います。

では、今後は何を行うべきか。それは、PDCAのCAを遂行することではないでしょうか。現在の成果をなぜ生むことができたのか(Cの実行)。そして、来るべき将来に備えて何を改善するのか(Aの実行)。この2つに取組むことが、さらに強固になった「日本モデル」の策定に向けて大切なことではないかと思います。