空白の時間

どこから話していいのか。私はプロのライターでもないから、書くことが上手なわけじゃないので、読みづらいかもしれないですが、読んでくれる方がいることが嬉しいので、私なりに読みやすくなるようにひとつひとつの話を短編で書かせていただきたいと思います。
短編の続き物としてお付き合いください。

思い出と呼べなくて

みなさんは、幼い頃から大人にかけての思い出(記憶)は、はっきりと覚えていますか。

記憶喪失と言うわけではないのですが、
私には幼い頃の記憶が一部欠けています。

普通は大人になっても、幼い頃によく聞いていた音楽を聴いたり、懐かしい本や漫画、雑誌の切り抜きを見つけたりすると、あの頃はこんな事してたんだと思い出して、昔を懐かしんでその思い出に浸ってみたりするんでしょう。
その幼い頃の思い出が大人になっても色褪せずにいる事に、過去の時間の何か懐かしさや切なさなどに、心が癒されたりグッと込み上げるモノがあったりするんだと思います。
時には嫌なことを思い出したりもするんでしょうけど、基本的にはいい思い出を優先して思い出そうとすると思います。
わざわざ思い出したくない事を思い出すのに頭を使う人はあまりいないかと。
だいたい、思い出って、思い出そうと必死に考えて蘇ってくるモノと、自然と頭に浮かんでくるモノと、突然フラッシュバックするようなモノと3つがあるのかと思います。
最後のは思い出というより、記憶と言った方がしっくり来ますが、線引きは人それぞれとして。
だいたい、自然に思い出せるモノがいい思い出と呼べるモノなのかな。

私には思い出したい時間が人より少ないから、思い出に浸るなんて事は大人になって一度もないです。
昔のことを考える事は避けている。

小学生の頃だと四年生の頃が一部忘れている。五年生の頃の記憶はぽっかり無い。そしてその後は中学三年生の頃。

本当に辛かったり悲しい記憶は忘れ去りたいから頭の中から抹消しようとしたんだと。無かった時間にしたかったんだと思います。
思い出さないようにしていたら、年月が経って思い出せなくなってしまったという現象になって。一生懸命に考えれば思い出せそうだけど、別に思い出したくはないし、嫌な感情まで一緒に蘇ってくるから普段は思い出そうとしません。
”そんな勇気はない。
思い出そうとすると苦しくなる。
そして、自分が嫌になる。
思い出さない方がいい。”
そう思っていて。

こういう感情から、私には幼い頃の記憶が他の人より少しだけ少ない。私には、幼い頃の思い出というモノに対して楽しみや懐かしさよりも罪悪感、後悔喪失感を強く感じてしまう。

稀にだけど、”思い出したくない記憶”と”覚えていたかった記憶”が同時期で、思い出したくない感情が勝って、思い出せないから、頭が空っぽになる一瞬がある。稀な事だし、たいした事では無いのはわかっているけど、思い出そうとしてしまう時がある。
例えば、お母さんから「中学生の頃に同じクラスだった◯◯さんがお店に来たわよ。」と言われた時。
中学生の頃の記憶は一年生の頃くらいで、二年生の頃は思い出したくないし、三年生の頃なんて、学校に一年間行けていないから、もし同じクラスメイトだったとしても覚えている訳がない。
卒業式に少しだけただ参加したけど、あんな一瞬でクラスメイトを覚えるなんて出来ない。

中学何年生の頃かで、思い出す時期も変わるんだが、知らない名前を言われたら一応、思い出そうと考えはする。
けど、やっぱり無理だと諦める。

それは特に小学五年生の頃と、中学二年生の頃の記憶がほとんどない。
何してたんだろうと考えれば記憶は甦えるだろうけど、私の頭の中で箱の中に入っている状態。
わざわざ鍵を探して開けるほどのいい記憶ではない。

“過去”・“記憶”・“思い出”
思い出と言うと、何でもきれいなイメージを持ってしまう。
私の過去は、そんなきれいなイメージのものはひとつもないし、過去だから、これから”いい思い出”と呼べるようになる事はない。
よくドラマなんかで、過去の苦い経験や辛い思いをした時間が“今となればいい思い出”のように語るシーンがあったりするけど、私の過去はどう未来が明るく描かれようがそんな事にはならなそうだと思ってしまう。
だから、私にとっては思い出じゃなく、空白の時間でいいと思っている。
でも、そんな空白の時間を何十年ぶりに思い出させてみようと思い、ここに書く事にしました。

過去を振り返る

暗い話を長々と書いていくつもりはないですが、明るい話ではないと思う。
けど、最後まで読んで貰えたら、私が何故、何十年かぶりに空白の時間を思い出してみたか、わかって貰えます。

先に言っておきますが、何十年かぶりに思い出して書くので、ひとつの話から時々道が逸れてしまう事があるかもしれないです。
その時はすいません。でもきちんと元の道へ戻ってお話しします。

今まで思い出したくなかったのは、やっぱり悲しい記憶だとわかっているから。

悲しい記憶だから、思い出すと悲しくもなる。

一番覚えているのは、お母さんに泣かれた時の記憶や、叩かれたりした記憶。
家を出て行って帰って来ない日もあった。

ここだけ聞くと、酷い母親だと思う人も居るかもしれないけど、私の母親は日本一強くてすごい母親だと私は思う。

ここからは、私の「空白」の過去の時間を蘇らせてお話をしていきます。

その時間は私の幼い頃の話し。
私はその当時では珍しい病気になった。

話しを勧める前に先に書いておきます。これは“病気になった私が今では元気になって幸せに暮らしている”というような幸せ物語の話ではありません。今も病気は健在中。完治していれば、完治までの道則を書けたかもしれませんが、まだ今は書けそうもありません。病気という言葉を聞くと、”闘病生活を頑張っている”、勇気をくれるような内容が書かれている話だと思う方もいるかもしれませんが、残念ですがそれは期待に応えれません。私はこれから先もこの病気と付き合っていくと思うし、それがどれほど先までかはわかりません。

だからといって、“病気と立ち向かい、素晴らしい人生を歩めたと誇れるような話”でもなく、ドラマや本である涙が出るような感動を与えれる話でもないかと思います。

私の病気自体が、認知度は高くなっていても、ちゃんと認識されている人は少ないと思うので、読んでくれる方の捉え方で、私の生き方や考え方に非難される部分もあるかもしれませんが、これが私の考え方で、生きてきた記録。
多分、考え方は一般的じゃないところも多い。
でもそれでいいと思ってここまで来たから、ここに残しておこうと思い、書くことを始めた。
“note”という単語にはいろんな意味があるが、私のこの綴りで一番適格な訳詞は「手記(しゅき)」でしょう。

まだ私の人生は終止符まであと30年はあると思うけど、まだ思い出の時間の方が少ない。
過去の方が長いのか。
いい思い出でもないのに、過去の時間の方が長いなんて、いやだと思う。
あと40年生きればいいじゃないか!と言う人も居るだろうけど、その自信は今は無いんです。

覚えていない記憶の分もあるから、これからは、未来の私が「忘れたい」と思う事になるような時間は減らしたい。
こうしてnoteを書いている時間もいい記憶になるようにしたい。

ただの一人の女の生き方の話になりますが、読んでもらう為に美化したり、話を盛ったり、何かを被せたようなことはせずに書いていきます。

病気にかかった一文からだいぶ間に話を入れ込んでしまいました。
短くするにしても場所を移すにしても、どこかでは言っておきたいことだから、このままにしておきます。

私の「空白」時間

私は小学四年生の秋頃に病気になってしまいました。
本人には自覚がなくて、誰かが私を見て病気だと思ったのか、どうしてそうなったのか、いつが最初の病院へ行った日だったかわからないし、これも思い出したくないのか、思い出せないのか、薄っすらな記憶で知人の紹介でお母さんと県内では割と有名な大きな病院に行って診察を受けた。

診察を受けて、すぐにでも入院させた方がいいと医者がお母さんに言っていた。
病気になっているという意識がない私には、医者がたいした事無いのに入院なんて大袈裟に言っていると思った。
医者の口車に乗せられて、緊急入院とか名付けられて、入院費用をぼったくられるだけだと思った私は、お母さんに「ヤダヤダ」と言っていた。
先生側は患者が入ることで経歴にもプラスになるのか、入院費用も入るし、簡単に入ってくれそうな餌が目の前に来ているから、お母さんをまんまと丸め込んで私を入院させるんだろうと思った。私は病気の意識がないのだから、何としてでも入院なんてしたくなかった。
先生は、私の発言なんて無視で病室のベッドが空いているかを確認していた。
幸い、病室のベッドがその当日は空いていなくて、即入院とはならなかった。
子供だけが居る病棟に入院させる予定だったようだけど、ベッドが埋まっていたから当分は安心だと思っていたのに、子供病棟は空いていないし、空くのも一ヵ月以上先になりそうだと。
私は入院したくなくて、自力で治せると言っていたと思う。何としてもここには入院したくなかった。
まず、私が入院する事でこの先生の手柄になるのがイヤだった。
私の発言をガン無視した先生、初日で嫌いになった。
ベッドが空くまで外来通院だった。
通院くらいは行かないと、心配してくれていそうなお母さんが可哀想に思えて、渋々行っていた。
でもある日、週に一度の外来日に突然、病室案内をされて、自然な流れのように心の準備もなく、入院させられた。
ここから思い出せない。
わんわん喚いた記憶が無い。
確か、身体を一度ちゃんと全部診て貰う為に1週間だけの入院だと言われて、渋々入院した気がする。
1週間が経っても退院なんてさせて貰えず、2週間、1ヶ月と延ばされた。
入院期間を延ばされる度に“嘘をつかれた、大人達に嵌められた“と思っていた。
頑固な性格の私が頷いて入院するわけがないから、グルになって嘘をつかれてしまったと。
まず、悲しかった。
親は私には伝えずに入院させることを決めたんだと思うと、そんなに私と一緒に暮らしていることが辛いのかと感じて悲しかった。
外来のつもりで来たのに入院させられた事で親に騙されたと思った。
そして何より、嫌いな先生に嵌められたんだと思うと悔しかった。子供の頃でも、悔しい感情は特に強く覚えているものだ。

親は私を騙して入院させたくせに、私が入院した日に薄っすら涙を浮かべていた気がする。
”知っていたくせに。わかってたから着替えやバックを用意してきたんでしょう”、そう思ったけど、何故か泣いていたような一瞬が見えた私は、病気の子を持つ親の気持ちがなんとなくわかったような気がして、文句を言うのはやめて、とりあえず1週間だけ、親の決めた入院を引き受けることにした。

だけど、1週間で退院させて貰えず延期が続いて、いつ退院出来るのか、担当医が来る度に聞いていた。
とりあえず、私は1ヶ月の予定で入院することになっていたようだった。
ベッドの頭のところに“入院日と退院予定日”が書いてある紙が貼ってあったから。
一度は受け止めた入院だったけど、1ヶ月も入院するつもりは端からなかったから、2週間にして欲しいとか、3週間にしてとか、刻んでは期限の交渉を親にも担当医にもしていた。
とにかく早く退院して普通に生活したいと思っていたから。
病院という場所が私にとっては檻の中に入れさせられているような感覚で嫌いだった。
入院が好きな人は居ないと思うけど、
何も文句を言わずに入院している同い年の男の子が同じ病室に居た。
私が来る前から居て、親がお見舞いにたまに来ていたけど、共働きなのか、片親なのか、お母さんが三・四日に一回、一週間に一回来るペースで、いつも二人で会話して笑っていた。

笑っている親子を羨ましくは思ったけど、私はその頃は他に何も思っていなかった。

私のお母さんは仕事の合間に時間を作ってくれていたのか、ほとんど毎日お見舞いに来てくれた。
前日のお見舞いの時間に喧嘩をしても、必ず次の日にはお見舞いに来てくれていた。
でもその頃の私は、その事をありがとうとは思わず、私と一緒に居るのが嫌で入院させたんだとばかり思っていたから、わざわざ来てくれていることに感謝もせず、当たり前かのように出迎えて、お母さんと会えばすぐ「早く退院させて」と言う発言ばかりしていて、他に何の会話をしていたかは思い出せない。
ただ、その頃はお母さんと笑い合ったりした記憶が一切ない。
その頃の自分を思い返すと嫌になる。

今になってやっと母親の苦労やありがたみがわかる。
今日の回はここまでにしておきます。
第一回目、読んで頂きありがとうございました。

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