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『月の沙漠の曽我兄弟(2)』

 純一と二つ歳の離れた弟の曽我大吾は、北条出版という会社で編集者の見習いとして働いていた。

「おい、大吾!和田先生の原稿どうなってんだっ?」

 机の上に山積みになった本や雑誌の向こうから、佐々木高司編集長の怒号が飛んで来た。

「すんません。まめにあおってるんですけど……」
「馬鹿野郎!あおってる段階じゃねぇだろう!もうとっくに締め切り過ぎてるんだ。それから寝ずに校正するのはお前なんだぞ。さっさとラチって、どっかのホテルにこもってもらえ。もちろん、ホテル代は原稿料から引かせてもらうけどな」

 そう吐き捨てると、和田はけっけっけとカワセミの鳴き声のような奇妙な笑い声を上げた。

 文芸誌に連載を持っている和田義男は、確かに部数を稼げる人気作家ではあったが、過去に芥川賞の候補に挙がったことをいつまでも鼻にかけて、わがままばかり言う厄介な作家だった。

 和田の書く文章は決して嫌いではなかったが、それは本人に会うまでの話だった。自分が新米編集者となり、実物の和田義男に会ってからは、支離滅裂な言い逃れ、印税や原稿料への不満ばかり零す人間性に大吾は辟易とするばかりだった。

 ビルを出ると、春の暖かな陽光を大吾は浴びた。

 三鷹にある和田氏の自宅に向かうため、大吾は出版社のある新宿から中央線に乗った。平日の昼時の車内は閑散としていた。電車に揺られながら、再婚して小田原に住み始めた母のことを想った。

 父親の敵を打つなどというたわごとは捨てて、自分の道を見つけてほしいと母親は願った。

 兄の純一が心に抱いていたように、中学生だった大吾も父親と同じ印刷業を継ぐつもりでいた。しかし、会社が倒産し、父が心労で倒れてそれが叶わなくなった時、大吾は自分がどこに向かえばいいのかわからなくなっていた。せめて、母親が「何とかして会社を立て直してほしい」と懇願してくれたのなら、その道がどれだけ苦しくとも、大吾はそのいばらの道を力強く歩き出すことができただろう。

 温厚な兄の純一であれば、仕事を持って社会に揉まれているうちに、自分の身の上におこった不幸を忘れないまでも薄れさせていくだろうと母は見積もっていたのかもしれない。でも、いくら穏やかな兄でも、父親を追い詰めた相手のことを許すことはないと、大吾は確信していた。

 母親が再婚して伊豆から小田原へ移り、慣れない土地で新しい友達もなかなかできずにいた。だから、純一と大吾は、いつも二人で遊んでいた。

 家に戻っても、やさしく頼もしい父親はいない。新しい父親である曾我氏も大吾たちにとてもやさしかった。そのことに、純一も大吾もなに一つ不満はなかった。でも、二人はその場所が自分たちの居場所ではないのだと、本能的に感じていた。

 遊び疲れて山の斜面に佇むと、日が暮れかけて赤らんだ東の空に向かって、四羽の鳥の群れが飛んでいくのが見えた。

「なあ、大吾」

 純一が野山を駆けてすっかり汚れた手で東の空を指さしながら、大吾に呼びかけた。

「なんだよ」
「弱気なことを言うかもしれないけど、オレはあの鳥たちがうらやましいよ」
「空を飛べるからか?」

 大吾は手に着いた砂を払うと、それをそのままズボンのポケットに突っこんだ。

「あの鳥たちは、きっと家族だ。先頭の大きいのが父親で、そのとなりが母親。そして、後ろをついて行くのが子供たちだ」

 純一が何を言わんとしているのかすぐさま察した大吾は、さっきまでの素っ気ない言いっぷりができなくなり、押し黙った。

「オレたちのおとうさんは、もういない。戻ってくることもない。だから、もうオレたちはあんな風に家族で仲良く同じ方角へ進むことも叶わないんだ」

 横目で純一を見ると、純一は嗚咽を堪えて、静かに涙を零していた。弟想いで、いつも自分のことを後回しにしてくれる優しい兄が、このようにしみじみと泣くのを、大吾は初めて見た気がする。

 大吾はズボンのポケットの中で両の拳を握りしめ、そして、奥歯を強く噛んだ。

「兄ちゃん」

 大吾は純一を呼んだが、純一は大吾を振り返らなかった。泣き顔を見られるのが嫌だったのだろう。

「『ふくしゅう』しよう。おとうさんを、あんな風に追い詰めたやつに『ふくしゅう』するんだ」

 中学二年生の大吾だったから、「復讐」という言葉の意味は知っていた。でも、その本質を正しく知るはずもなかった。

 純一は大吾のその問いかけに、何も答えなかった。ただ、鳥の群れが消えて、高い空に星が見え始めた夕闇を、身動きもせずに見上げているだけだった。

 でも、二人にはそれだけで十分だった。純一が返事をしないということは、大吾の想いを受け入れたということだ。それは母親ですら触れることのできない兄弟の絆でしか通じ得ないことだった。

 母親の許しがあろうとなかろうと、兄の純一が思春期の頃の危うい約束を覚えていようと覚えていまいと、大吾は自分のやり方で、工藤に父親と同じ、いやそれ以上の苦しみを味あわせてやるつもりでいた。だから、専門学校に入学して母親を安心させ、家を出ると、目論んでいたとおり専門学校をすぐに退学し、大吾は出版業界では名高い北条出版の門を叩いた。そして、どんな仕事でも良いし、どれほどの安月給でも良いから雇ってほしいと懇願した。

 北条出版は源田印刷の傘下にあり、社長の娘は源田印刷の社長の妻になっていたことを、大吾はかつて三郎の会社の社員で、今は平井プリントの社員となった千葉常久からそれとなく聞き出していた。つまり、北条出版は仕事面だけでなく、血縁においても源田出版と近しい関係にあった。源田印刷の経営陣の一員となってのうのうと暮らしている工藤に近付くためには、そうした遠回りも必要だと、大吾は考えていた。

 何より、兄の純一が大学を出て、正当な試験を通過して源田印刷の正社員になったことを千葉から聞かされた時は嬉しかった。その時大吾は、風呂もない新宿のぼろアパートの一室で、裸電球の頼りない光に照らされながら、しみじみと泣いたのだった。

 純一は自分のようにあからさまに「復讐」などと口にしなかったが、敵の牙城に堂々と乗り込んでいったことで、思春期の約束を覚えてくれているのだと、大吾は解釈していた。

 車内アナウンスが三鷹に到着することを知らせると、大吾は我に返り、仕事のチャンネルに思考を変えた。これから偏屈で傲慢な和田に会うのだと思うと、ホームの階段を下りる足取りも、どことなく重くなった。

『月の沙漠の曽我兄弟(3)』につづく…。

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