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『月の沙漠の曽我兄弟(4)』

 入社して三年が過ぎ、純一は、その温和で柔らかい物腰から、営業部のエースとなって源田印刷に貢献していた。しかし万が一、包装紙のセクションに配属になっていたら、果たしてこのように溌剌と仕事ができていたかどうか、純一本人も自信がない。

 幼いころから自宅の隣にあった印刷工場で、多くの包装紙やショッピングバッグを目にしてきた。それらは純一と大吾の遊び場の記憶そのものだったのだから、自分を形作る物語の「起」から「承」の部分を網羅していたはずだ。そんな環境で心穏やかに仕事として割り切ることは恐らくできなかっただろう。

 しかし、仕事の打ち合わせで包装部に顔を出した時、そこに配属になっていた同期の横田肇から突然思いがけないことを問われ、純一は狼狽えた。

「お前、『伊東パッケージ』って知ってるか?」

 そう問いかけられ、純一は全身に延々と微電流を流し続けられているかのように身を強張らせ、眼を泳がせた。腋や掌には、たっぷりと脂汗をかいていた。

 横田は仕事で使っているファイルの中に『伊東パッケージ』という名のものを見つけ、それを何気なく開いてみた。すると、膨大な量のデザインサンプルや単価計算表、仕入先リストや完成品の納品先などが収められていた。幾つかのデータは上書きされていたのだが、残ったいくつかのデータ、主にデザインサンプルはそれが作られた当時のままだった。しかし、その作成日時が、この会社に包装部ができた年月よりも前だったことを、横田は不審に思ったのだ。

「これって、つまり、外部のデータってことだよな?」
「そう考えるのが……、妥当だな……」

 純一の心は荒く波打ったままだったが、表向きは精一杯の平静を装って、横田に対応した。

「作成者は『河津三郎』ってなってるな。そんな社員いたか?」
「いや、知らないな……」

 純一はそれがまさか死んだ自分の父親の名前だとは、とても白状できなかったし、白状するつもりもなかった。

「もう退職したのかな?ちょっと、人事に聞いてみるわ」

 そう言って、横田は机の上の電話機を引きよせ、受話器をとり、人事課の内線便号をプッシュした。

 そこには、純一たちが入社したときに工場を案内してくれた受付の芝川虎子が、異動していた。

 初めて会った日から芝川虎子は純一に目をかけてくれ、純一も快活で愛らしい虎子を慕った。そして、入社してほどなく、二人は恋人同士になっていたのだが、虎子も純一も要らぬ醜聞が立つのを嫌って、周囲にはその事実を伏せていた。

 純一は相手が受話するまでの間、できることなら虎子が電話をとらないで欲しいと、心の中で祈っていた。

「あ、包装部の横田です。ちょっと頼みがあるんですけど、今、手が空いてますか?」

 そういって、横田は淡々と『伊東パッケージ』『河津三郎』について尋ね始めた。その様子を、夜道で亡霊を見て硬直している足軽のように突っ立ったまま、純一はぼんやりと横田と人事課の社員とのやり取りを聞いていた。

(オレは曾我純一だ。『伊東パッケージ』や『河津三郎』の名前を見つけたからと言って、役所みたいに戸籍や住民票を閲覧できるわけでもない。足はつかない、大丈夫だ)

 心の中で念仏のように、そう言い聞かせながら。

 万が一、自分と河津三郎の関係が明るみに出てしまえば、その事実が取締役の工藤祐介の耳に入るのも時間の問題だろう。これ以上横田を深入りさせてはいけない。純一は、話に角が立たないように、(前の担当者が消し忘れていったデータなんじゃないか?)(もしかしたら、マル秘の資料かもしれないぜ。閲覧記録が残るからもうやめとけよ)などと言いくるめようとした。しかし、純一がそんなことを想い巡らせているうちに、横田はさっさと電話を切ってしまった。

「なんか、分かったか?」

 涼しい顔を作って、純一は横田に尋ねた。しかし、横田は渋い顔をして、首を横に振っただけだった。

「河津三郎という社員は現在もいないけれど、退職者にもいなかったんだな?」

 純一がそう尋ねると、やはり黙って横田は頷いた。それはそうだ。河津三郎は伊東パッケージの経営者で、伊東パッケージは先代の祐一から受け継いだ個人経営の会社なのだから。それに、その会社も河津三郎も、もう存在していない。

「でもなあ……。なんか、腑に落ちないんだよな」

 横田は事務椅子の背もたれに体を預け、ギシギシとばねを軋ませて天井を仰いだ。

「何が腑に落ちないんだよ?」

 純一が問い返すと、横田は思いがけないことを呟いた。

「できすぎなんだよ」
「できすぎ?」
「ああ。うちのずぼらな社員が作ったにしては、どのデータも資料も、緻密で抜け目がない。包装紙やショッピングバッグのデザインにしても、うちのデザイン部の比ではないんだよ。クオリティーがね」

 芸大出身の横田がそう断言すると、不覚にも純一は喉の奥をきゅっと詰まらせ、瞳を潤ませてしまった。

 時代を超えても父親の仕事を評価してくれる人はやはりいたのだ。易々と工藤に奪われてしまったデータや技術だったが、それでも三郎の仕事は、源田印刷で最大限の貢献をし、消費者に喜びや感動を与えてきたのだ。そう思うと、自らの命を削って会社や社員を守るために走り回った三郎の努力が僅かながら報われたような気がしたのだ。

「おい、大丈夫か」

 涙こそみられなかったが、泣くのを堪えようとすると鼻腔がひくひくと動いてしまうので、純一はそれを隠そうと不自然にうつむいていた。これではとても声も出せないと察した純一は、左の掌を横田に向けて、くるりと踵を返した。そして、そのまま何も言わずに包装部を出ていった。

 恐らく勘の良い横田は純一の異変に気付いただろうが、それは後からなんとでも言い訳ができた。昼飯で食べた小魚の骨が喉に刺さったとか、朝の洗願で流し損ねた石鹸が今ごろ目に滲みてきたとか。

 しかし、その頃、人事部では静かな異変が起きていた。

 通話を終えた人事課の女性社員が受話器を置くのを見計らって、彼女の背後に取締役の工藤祐介が忍び寄ってきたからだ。

「今、『河津三郎』とか、言っていたね。どこからの電話だい?」

 女性社員は一瞬その相手が誰なのかわからないでいたが、襟に付けられた社章が重役であることを暗に物語っていたこともあり、困惑した。しかし、辛うじてその動揺を悟られないうちに彼女は工藤の顔を思い出すことができた。

「もしかしたら、私も関係している話かもしれないんだ。詳しく教えてくれないかな?芝川……、虎子さん」

 工藤は椅子を回転させて振り返った女子社員の名札を覗き見ながら、そう言った。

 芝川虎子は、なぜ人事部に取締役がいたのか不可解なまま、彼の詰問に圧倒され、問い合わせの内容や電話をかけてきた相手の名を吐露してしまった。

『月の沙漠の曽我兄弟(5)』につづく…。

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