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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(8)

〈前回のあらすじ〉
 
父親を失い、親戚や近所からも見放された諒の家族は、それでもひっそりと暮らしを守り続けていた。そんなある日、仕事から戻った直が唐突に「俺も諒も、野獣だ」と言った。直の真意は掴めなかったが、諒は少なからず直の心に燻る危うい火種に怖れを懐き始めていた。

 8・差出人不明の届け物

 外界から閉ざされたはずの我が家に、思いがけない郵便物が届いたときは、僕は誰かからの心ない嫌がらせだと直感した。

 陰気な我が家は、住宅街の癌だとか、破廉恥な父をもったうえに、後追い自殺をする兄をもつ僕も、破廉恥な上にそのうち自殺をするのではないかと、乱暴で残酷な投書をするものがいたこともあった。それでもこの住宅街に僕らが居座ったものだから、いよいよその文書を投函した者も心が折れ、投書をやめてしまった。だから、多少歪んではいるものの平穏な毎日が訪れた我が家に、久しぶりに郵便物が届いたときには、驚いた。しかも、それは他でもない僕に宛てられていた。

「逸見進様の次男様」

 それにしてもよくもそんな宛名で郵便配達員もここへ届けることができたと驚いたが、我が家の郵便受けにはまだ死んだ父親の名も刻まれていたし、住所は間違いなかったので、日本の郵便事情では届いて然りだったのだろう。

 ところが、誰かから大きな茶封筒で何かを送ってもらうような心当たりが僕には全くなかったので、郵便受けからはみ出したその茶封筒を持って直の部屋に入ってからも、しばらくそれを机の上に置いたまま、僕は封を開けようか開けまいか迷っていた。

 窓の外の広葉樹はすっかり葉の色を赤や黄に変え、我先にと乾いた枝から地面に落ちていった。風は乾き、いよいよ暖房器具を出さねばならぬと、僕は思考の片隅でメモを取った。

 僕はいよいよ思い立って、直の小さな学習机に押し込まれた椅子を引き出し、それにどっかと腰掛けて、机の抽斗の最上段からペーパーナイフを取り出した。そして、ゆっくりと(恐らく)僕あてに届いた茶封筒の封を切った。差出人の名は封筒に書かれていなかった。

 父親が亡くなり、その心中事件の記事が慎ましく報道されてからすぐに新聞を取ることをやめたし、電気代や水道代の請求も、父親の預金を引き継いだ母親の預金口座から引き落とすように変更されていたので、薄っぺらい公共料金の支払い明細だけが届くようになっていた。僕らの家庭の事情を知らない化粧品や電化製品のダイレクトメールだけは根気強く届けられたが、それ以外に母親や僕に、ましてや亡くなった父親や直に宛てて届く手紙や小包などは、全くなかった。

 右手でペーパーナイフを滑らせるために、左手で封筒の上から腹を抑えたとき、その内容物が書籍のようなものではないかと感じた。もし書籍でないとしたら、スケジュール帳や日記のような、少し装丁のしっかりとしたものだと想像てきた。

 封を切り、ペーパーナイフを机上に転がしたまま、僕は封筒の尻を持ち上げて、大きく開いた口から内容物を滑らせるようにして、机の上に落とした。

 それは僕が予報した通り、A5サイズの書籍だった。

『全国水族館ガイド〜水族館のすべて〜』

 そのガイドブックの表紙には、ジンベイザメが泳ぐ水槽が写り、水槽の下の小さな人影がその巨大魚を見上げていた。

 僕は戸惑いながらガイドブックを手に取り、パラパラとページをめくってみた。
  
 イルカやクラゲ、シャチやペンギンの写真が並んだあとに、魚や海獣の飼育や水槽の管理などを含む水族館の仕組みを解説する文が記載されていた。巻末には全国に現存する水族館のリストが細かく記載されていた。

 僕は再び本を閉じ、もう一度青いジンベイザメの表紙を見つめてから、改めて茶封筒を逆さにかざし、差出人から添えられた手紙やメモが入っていないか確認した。だが、封筒からは何も落ちてくることはなかった。やはり、届けられたのは、水族館に関する本だけだった。

 僕は思案した。

 果たしてこの本は本当に僕宛てに送られたものだったのだろうか。宛て先の住所も僕の家に間違いないし、その家長は進という名の男だったし、僕はその男の次男であった。もしかしたら、この近所にも進という名の家長を持つ家があり、そこにも男児が二人いたのかもしれない。あるいは男児が二人いなくとも、その子の名が『次男(つぐお)』ということもあり得た。そうして、そこに届けるべき水族館にまつわる書籍が、誤って我が家に送られてきた。そんな間違いが全くないとも限らない。僕はそのように、身に覚えのない郵便物の行き場所について、いろいろと考えてみた。

 直がここにいれば、即座に名案を思いついたに違いなかったが、直はもう冷たい墓石の下に眠ってしまった。だから、僕は目の前の不思議な郵便物に一人で立ち向かわなければならなかった。

 その時、ふと僕の脳裏に一人の女性の面影がよぎった。

 柳瀬結子。

 彼女なら、上司であった僕の父親の住所も知っていたし、その男に二人の男児がいて、長男は父親と同じ職場に勤めていることと、次男は高校を卒業して以来、平日の昼間に墓参りに来れるような自由な身であることも知っていた。何処となく掴みどころのない浮遊感を持つ彼女であれば、父親の第二子である僕に宛てて「逸見進様の次男様」などという奇妙な宛名を書いてしまいそうだった。僕らは父親と直の墓石の前で対峙していたが、僕は結子の名を聞いていても、自分の名を名乗っていなかったことを思い返した。だから、差出人は柳瀬結子であるということが、次第に濃厚になっていった。

 ただ、わからなかったのは、なぜ水族館に関する書籍なのか、ということだった。

 墓地では水族館の話などしなかったし、家族の死を慮るために気晴らしに選んだ書籍なのだとしたら、どこか的外れであった。この書籍を贈ることで結子が僕に何を伝えようとしているのか、僕にはさっぱりわからなかった。「不安と勇気」についてこの本から何かを悟るには、随分と研ぎ澄まされた達観が要りそうだった。

 そうやって思案が行き詰まるたびに、本当に差出人は柳瀬結子なのだろうかと、振り出しに戻ってしまった。

 結局僕は、窓の外が夕焼けで赤く染まっても、やがてそれが闇夜に包まれても、差出人不明の青い本を目の前にしたまま、ずっと直の学習机で堂々巡りの思案を続けていた。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(9)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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