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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(1)


〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

1・父親の失踪

 自ら命を断つようなやつは、目の前の困難にも立ち向かえない意気地なしだと思っていた。
 
 一人でこの世に生まれ、一人だけでそれまで生きてきたのだと思っているエゴイストのくせに、物事が自分の思い通りに行かないからって、生きることを自分勝手に放棄するなど、そもそも生きる資格すらなく、死んで当然のやつだと思っていた。

 ただ、僕の知らない女と心中を図った父親に続いて、七つ年上の兄の直が首を吊って自らこの世を去ってしまうと、僕はこれまでの十九年間で感じたことのない、どうにもいたたまれない気持ちになった。この心の動揺は、深い地中の暗黒のように、僕の心の内壁に濃い闇となって重苦しく張り付いた。

 直の死後、僕はそこが元来自分の部屋であったかのように彼の部屋に入っては、床に寝転んだり、湿り気を帯びたベッドの上に横たわったりした。そして、決して切り離すことのできない自分の影のようにつきまとう、その闇と格闘していたように思う。そうして過ごした日々は、霧の向こうに見え隠れする自動車のテールランプを追いかけるように、心細くて、際限のない危うい時間だった。

 理工学を学んでいた父親は、隣町の海岸沿いにできた原子力発電所に勤め、その運転から管理まで携わってきた。そうした父親の足跡をたどるように、直も大学を卒業すると、父親の勧めによって原子力発電所で働き始めた。

 僕が住む街は原子力発電所からはずいぶんと離れていたが、そこに住む多くの人たちが原子力発電所で働くか、あるいはその関連施設で雇用されていた。たとえ原子力発電所に関わる仕事ではなくても、住民の多くがそこで働く人たちに向けた飲食店や宿泊施設などを営んで生計を維持していた。
 
 初めのうちは原子力発電所の建設に反対していた農家の連中も、多額の補償金をちらつかせられ、長いものに巻かれるように原子力発電所を容認した。そして、大概が作業服や備品の納入などをする半農半商のような生業に鞍替えしてしまった。

 直が原子力発電所に就職した頃、僕は高校に入学したばかりだった。父親や直とは違い、僕は理数系の勉強がとても苦手だった。かといって、他の学科が好きだとか得意だったと言うほどでもない。他のクラスメイトよりも多くの本を読んでいたことと、少なからず方向音痴ではなかったことぐらいしか自慢できることはなかった。だから、進学して高校も誰かに自慢できるような学力レベルの学校ではなかったし、大学進学を目標に、そこからがむしゃらに学業に勤しむような心意気もなかった。

 両親や直にしてみれば、僕はどちらかというと出来損ないの部類の人種だったのだろうけれど、僕はそれをあえて否定しようとは思わなかった。

 出来損ないでなければ、もっとましな高校へ進学し、その先の確かな展望を心に描いていたはずだ。それが出来なかったのだから、僕は出来損ないの称号を甘んじて受け入れるより他なかった。だからといって、両親が僕を蔑むようなことはなかった。それは、長男である直が従順に父親と同じ道を選んでくれた安心感から、僕に過剰な期待をしなかっただけだったからかもしれないが。

 父親が忽然と僕らの前から姿を消したのは、僕が高校で淡々とした毎日を送る傍ら、直が原子力発電所で父親の足跡を辿って敏腕をふるうようになった頃だった。それは神隠しのような錯乱を帯びたものではなく、初めからこの家には父親が不在だったのではないかと錯覚してしまうほどに、穏やかで柔らかい失踪だった。

 そのせいかどうか、直は家長を喪失した失意を露わにすることもなく、いつもと同じように起床し、いつもと同じように家を出て、海流に逆らってひたすら泳ぎ続ける鰯の群れの一匹にでもなったかのように、毎日黙々と原子力発電所に通った。

 僕はといえば、そうした直の平静さに戸惑いつつも、決して拭うことのできない違和感に囚われないように努めた。父親の話題を口にしなくなった僕は、家長が不在となった寒々しい家の中で、電池の切れかけたブリキのロボットのように、ぎこちない日々を持て余していた。

 ただ、いつものように高校へ通学する日々を続けはしたが、そうした日々の中で、学業や高校生活に対する意欲がみるみると削がれていることを、僕は自覚していた。四人分満たされるはずの人の気配が三人分になってしまった我が家の執拗な虚無感を、僕は直のように涼しい顔でやり過ごすことができなかった。

 授業で教科書を広げていても上の空。進路相談の段になっても、クラスメイトたちが偏差値だとか模擬試験の結果とかに一喜一憂している中で、僕だけが蚊帳の外にいた。

 僕の父親の失踪をまだ知らない担任教師には、地元の専門学校に行きたいと伝えていたが、そんなこと直にも母親にも相談していなかったし、そもそも僕の本心ではなかった。稚拙な僕の偽装を真に受けて、熱心に指導記録簿にペンを走らせている教師を見つめながら、この人たちの匙加減一つで、僕らの未来の指針が定められてしまう怖れを感じ、僕は彼らに対して、憎しみに似た軽蔑さえ抱いた。

 父親が不在となり、進路のことも詮索されることもなくなったのだから、早々に高校を退学し、働きに出てもよかった。もしも高校生活が五年も六年も続けられるのなら、それでも構わないと思っていた。だが、地元の原発で働く直の体裁を考えれば、僕は無思慮な行動をとるべきではなかった。遅かれ早かれ父親の不在は近所の住民に知られることになり、やがて担任教師の耳にも届くだろう。いや、我が家のガレージにあるはずの父親のセダンがずっと消えてしまっているのだから、もうすでに勘のいい住民は、我が家に何か非日常的な事件が起こったのだと察したことだろう。

 いつしか僕は、独裁政権を逃れて着の身着のまま国境を渡り、隣国で身分を隠して暮らす亡命者のように、周囲の視線や気配に注意を払いながら日々を過ごすようになっていった。

 土台の支えをなくしてゆらゆらと揺れている積み木の上に僕らはいた。あとほんのすこし、誰かが積み木の一面を突けば、あっけなくそれは崩れてしまうことに、僕も直も母親も、内心で怯えていた。

 やがて失踪した父親は、欠勤を補う特別休暇も消化していまい、自己都合の退職扱いとなって職を失った。失業の通告を携えてきた原子力発電所の上司と人事担当者を家の居間に迎え入れ、直と母親が彼らに対峙した。僕も直の言いつけで階下に降りてはいたが、見知らぬ大人たちから父親の素行を聞くことがどことなく不愉快で、台所の椅子に腰かけて、ガラス戸越しに居間から漏れてくる彼らの声を聞くともなく聞いていた。

 彼らの話しぶりから察すると、父親の勤務態度はいたって勤勉だったようだ。父親の上司も、僕らと同じように父親の失踪の理由を見つけられないまま、当惑していた。そして、会社の規則に従って解雇しなければならないことを心苦しいとも訴えていた。直は父親の愚行を丁寧に詫び、母親はその隣で静かに泣いていた。

 父親が残していった預金口座には、それなりの貯蓄があった。失踪してから、その預金が引き出された形跡もない。

「父さんなりに、後ろめたさを感じているのだろうな」

 仕事から遅く帰り、カラスの行水のような入浴から上がってきた直が、ぽつりと呟いた。その時も、僕は直の部屋に入り込み、直のベッドの上に胡座をかいて、もう夜なのに、まだどことなく薄明るい夏の空をぼんやりと眺めていた。

「でも、この家の月賦払いは、それだけで賄えるの?」
「さあ。今の預金だけではとても賄いきれないが、一応退職金が支払われる。ただ自己都合による退職だから、満額の退職金はもらえないはずだ」
「大丈夫なの?」

 無い袖は振れないことは百も承知だったのに、僕はうっかりそんなことを口にしてしまった。

「どうにかなるさ」

 それでも直は冷静で、僕が部屋にいるのもかまわずな腰に巻いたバスタオルを外して全裸になった。僕はどぎまぎしながらベッドを下り、直の部屋をそそくさと出た。

 この先、直の収入だけで家族三人が暮らしていくには心許なかったが、なにぶん僕らは船頭を失ったばかりの船の上にいたので、今はただ杞憂に翻弄される以外になかった。

 そんなときに、確固とした目標もないまま、時流に任せて進学していいものか、僕は思い悩んでいた。歳の離れた直は、家計に気兼ねせず進学しろと言ってくれた。直の配慮に報いたい気持ちがないわけではなかったが、周囲のクラスメイトたちが進路に敏感になればなるほど、直が寡黙に働けば働くほど、母親の眉間のしわが深くなればなるほど、それらが押し寄せる波に変わり、僕の中の気力と言う名の砂の城の土台をじわじわとさらっていった。そうなれば、僕の心の中にある砂の城が脆く崩れ落ちるのも時間の問題だった。

 そして、僕の高校最後の夏休みが間もなく終わろうとしていた頃、失踪届を提出していた警察から、父親の死の知らせが届いた。

 風もなく、アスファルトに照り返す暑さが人をも溶かそうとするかのような邪悪な夏の日のことだった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(2)につづく…。


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