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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(12)

〈前回のあらすじ〉
 
母親との二人暮しになってから約半年。僕はようやく外界との繋がることを決意した。ガレージで長い間眠らせていた自分のマウンテンバイクを引き出し、諒は水族館でのアルバイトに臨むべく、面接に出かけた。晩秋の風は冷たかったが、諒の心には何か熱いものが仄かに燃えていた。そんな時、諒はコンビニエンスストアで一人の初老の男を見かける。

 12・錠の壊れた自転車

 店内にはまだ暖房が入っていなかった。そのため、惣菜や牛乳が置かれた保冷ラックから落ちてくる冷気で、店内は不快に感じるほど冷えていた。僕は保温ラックに置かれた缶コーヒーを手に取り、レジでそれを精算した。店員からプラスチックバッグに入れられた缶コーヒーを受け取って、再びウインドウ越しに高校生たちに目をやると、その幼い肩の向こうで、初老の男がたすき掛けにしたポーチから財布を取り出すところが見えた。視力が弱いのか、男はポーチを顔の間近に引き上げて、その中を覗き込んでいた。僕はレジを離れ、肉まんの保温器の前に立ち、しばらく彼らの様子を観察した。

 男は財布を取り出すと、やはり同じようにそれを顔の近くに寄せて、皺にまみれた指先で、中を探った。ほどなくして、男は花札ほどの大きさに四つ折りにされた何枚かの千円札を取り出し、彼を取り囲んだ高校生たちに一枚ずつそれを配った。その様子を見ていて、コンビニエンスストアに入る前に感じた僕の違和感は、静かに増大していった。その一番の理由は、人目につく場所での金のやり取りのはずなのに、その最中、初老の男に笑顔が絶えなかったからだ。

 高校生たちから無理やり金銭を強要されたのであれば、一方に強欲な威圧感があり、もう一方に萎縮した怯みがあるべきだった。しかし、そうではなかった。初老の男は、年末に実家に遊びに来た甥たちにお年玉を配るかのように、終始朗らかだった。

 店内から漏れるLEDの白い光に照らされた高校生たちの姿が、僕には小さな悪魔のように見えた。

 もちろん見ず知らずのみすぼらしい初老の男の財産が少年たちに貪られていくことは、これから水族館でアルバイトの仕事を得て、自活を始めなければならない僕には関係のないことだった。だが、四つ折りの紙幣を手にして、にやにやとほくそ笑む高校生たちを見ているだけで、僕は食道を締め付けられるような不快さを感じた。僕は、父親の心中事件の後、教室という閉鎖された空間で、無言のまま、じわじわと僕を阻害したクラスメイトの面影を蘇らせていた。

 僕は店内の執拗な冷気から逃げるようにコンビニエンスストアを出ると、一度立ち止まり、初老の男を取り囲む高校生たちの輪に視線を送った。水色のマフラーをした高校生が僕の視線に気づいたが、彼はそれを気にも留めなかった。

 もしかしたら、その時の僕は、無意識的に息を止めていたかもしれない。それは、父親の自殺以来、僕が知らず知らずのうちに身につけた癖だった。

  僕は僕を阻害するクラスメイトとともに押し込まれた教室で、時折息を殺して自分の気配を消そうとしていた。そんなことをしても決して僕の存在を消すことなんかできなかったし、そんな健気な僕のまじないを気に留めてくれるクラスメイトもいなかった。だけど、僕は高校を卒業するまで、そうした奇行をやめることができなかった。

 そのうち、高校生たちが「またなぁ」と言って、朗らかに初老の男に向かって手を振った。その時、やはり水色のマフラーをした高校生が僕を見たが、息を殺していた僕とは対称的に、彼は快活に仲間の肩を抱き、やがて店の脇に止めた自転車に跨ると、滑るように駐車場を横切って行ってしまった。僕はその場に立ち尽くしたまま、痩せた初老の男を振り返った。

 男は手に持ったままの財布をもう一度開き、その中をまじまじと覗き見た。その後、財布をさかさまにして、その中に残っていた金をすべて左手の上に広げた。とうやら紙幣の最後の一枚も高校生に渡してしまったようで、彼の掌の上には、大きな五百円玉といくらかの小銭が残されていただけだった。

 それでも男は終始にこにこと微笑んでいた。それは、少年たちに紙幣を渡してしまったことを悔やんでいるといった風ではなく、さっきまでいくらか残っていた紙幣が、魔法でもかけられたかのようにすっかり消えてしまったことが不思議で仕方ないと驚いているように見えた。そうでなければ、空っぽの財布を逆さにして、それを音もなく振り続けていること自体を楽しんでいるようにしか見えなかった。それくらい、初老の男には、微塵も悲壮感が感じられなかった。

 僕はやはり初老の男は高校生たちに金を巻き上げられたのだとしか思えなかった。彼らと男がどのような間柄なのか解らなかったが、そうした行いは、きっと不健全だろうと考え、僕は再び、かつての自分を思い返していた。

 人間の腹黒さなど、どのような賢人であっても隠しきれやしない。まして、想像力も稚拙で、世間知らずな十代である。そうした行為が先人たる初老の男への侮蔑であるとは気付いていない。どうやら初老の男にとっては、それほどの屈辱だとは感じていなかったようだが、本来は、それを投げかけられた方にすれば、残酷な仕打ちの何物でもないのだ。

 僕はそうした荒波の中でもがきながら、なんとかここまで生きてきた。そんな中で、高校を中退もせず、人として横道に逸れることもなくやってこられたのは、頼りがいのある直がそばにいてくれたこともあるが、父親の二の舞にはなるまいとする僕自身の意地のようなものが作用していたからかもしれない。

 そのうち、小銭を戻した財布をポーチに仕舞い、初老の男は静かに歩み出した。僕が自転車を置いた場所に向かったことから、彼もそこに自転車を置いているのだとわかった。

 男の自転車は僕の自転車から三台分を空けた隣に置いてあった。男の自転車は、ディスカウントストアなどで売られている廉価なタイプの自転車だった。長く愛用しているのか、荷台やブレーキなどの所々のメッキがはがれ錆びていた。ハンドルの前に小さな金籠がついていて、ハンドルの左のグリップの根本に簡素な変速レバーが取り付けられていた。僕は自分のマウンテンバイクのもとに戻ると、ピーコートのポケットからプラスチックバッグに入った缶コーヒーを取り出し、剥いだプラスチックバッグをもう一度ポケットに突っ込むと、缶コーヒーの蓋を開けて、その場で温かく甘いコーヒーを啜った。

 初老の男は、自分の自転車の前輪の脇にしゃがみ込み、錠を解こうとしていた。だが、男は自転車の前輪の脇にしゃがみ込んだまま、解錠に手を焼き始めていた。

 高校生の頃から使い続けているデジタル腕時計に目をやれば、水族館のアルバイト採用の担当者から指摘された面接時間が迫っていた。

 コンビニエンスストアの建物の陰で、次第に男は低い唸り声を上げ始めた。上手く解錠できないのでイライラしているのかもしれない。僕は男に気配を察せられないように二三歩横に回り込み、男の手元を覗き込んだ。

 すると、自転車の錠が、歪に折れ曲がっているのが見えた。

 男が差し込んだ鍵が奥まで届かず、中途半端にはみ出していた。鍵が穴に入らないのだから解錠はできそうになかった。それ以前にフロントフォークに金具で取り付けられた錠自体が、ぐにゃりとスボークの間に食い込んでいたので、解錠出来たとしても錠そのものが前輪の回転を邪魔して、どうにも走行できそうにないと思われた。

 僕は初老の男を取り囲んでいた高校生たちの仕業だと、直感した。くだらない悪戯だったが、そのことで被る相手の損害や精神的苦痛を考えもしない稚拙さは、未成年者特有の残酷さだった。

 しかし、僕はいらぬ正義感を振りかざすことなど願い下げだった。僕なりに意を決してアルバイトに挑もうとしていたのだ。厄介なことに巻き込まれて、アルバイトの面接に遅れてしまうことは避けたかった。そのような稚拙な仕打ちを受けてしまう隙を見せた初老の男の自業自得だという苛立ちのようなものが、僕の中になかったわけではないが、そのようなものに僕の社会復帰を邪魔されたくなった。

 僕は缶コーヒーを飲み干して、空き缶を店頭のゴミ箱へ投げ込むと、マウンテンバイクに跨り、ベダルを踏み出した。後ろめたさがなかったと言えば否定できないが、初老の男が一切僕に関心を示さなかったことで、僕は先刻目にした一連の出来事をうやむやにすることができた。

 前方から駐車場に侵入してくる車がないことを確認してから背後を振り返ってみたが、コンビニエンスストアの建物が作る影の中で、男はずっと蹲っていた。その光景は滑稽には映ったが、不思議と僕には、哀れにも見えず、汚れているようにも見えなかった。

 半年以上ニートの生活をしていたせいなのか、僕には初老の男のような振る舞いをする人を理解できなかったが、文明とかけ離れた孤島に流れ着いたガラス瓶を手にした原住民や、二足歩行をする人間を見つけた野生生物であれば、もしかしたら男の苦悩を理解してくれるのではないかと思った。だが、それを確かめる術があるはずもなかった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(13)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

 

 

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