_カナリアの子ども

カナリアの子供(1)迷子

どうしたらいいのだろう。

なにかをどうにかしたほうがいいのだろう、とまでは考えられたけれどその先、なにをどう、という具体性は浮かばなかった。
思考もめぐらない。少年は、長く考え思うことに不慣れだった。

ちょうど目の前に見つけた公園のベンチに座った。昼少し前、11時。昼食に向かう人たちが多く行き交う様を、少年はただ眺めていた。

人々の様子は、ひと時も変わらずに姿を変える。眺めているうちに思考はますます溶けて、少年はそのうち自分が風景の一部に溶けたような気持ちになった。
ただ眺めること、目の前の景色を受け止めること、それは少年の得意とするところだった。人と相対しているときは感覚を研いで思考に瞬発力を持たせる必要があったけれど、景色を眺めるだけなら、そんなことをする必要もない。楽だった。

だから、時間はあっという間に過ぎた。
放送が入って、人間の外的活動時間が終了したことを知った。18時。ここから先は人形の時間だ。
人々は帰宅の足を早め、仕事を終えた人形たちが少しずつ外に出てくる。景色はまた様相を変えた。そういえば空ももう薄暗い。

少年には、”帰るべき”とされる場所が用意されていて、本当は日の落ちる前にそこに行かなければいけなかった。支給されたデバイスにはマップが搭載されていて、使い方も教わっていたし、”帰るべき”場所の登録までしてくれていたことも知っていた。けれどなぜそれを確認して、そこまで帰らなければいけないのかはわからなかった。歩き方もよくわからないし、なんだかずっと呼吸がうまくできていない。酸素がたりないのかもしれないと思った。酸素が足りなくなると脳で言葉を巡らせる力が落ちて、時には意識も真っ暗になる。そうなるときの感覚と少しだけ似ていた。

人間たちがみんないなくなってしまって、出歩くのは人形ばかりになった。人形たちのパッと見た目は人と変わらないけれど、ごくうすく発光しているから、よく見れば人でないとわかる。
綺麗だなと思った。そういえば家の人たちは、淡く光る人形を眺めたり、どうこうしたりするのが好きだと言っていた。
人形たちが光るのは、夜景の一部として景色に溶け込んで、それらを眺める人間を楽しませるためでもある。それを自分も間近にする日がくるとは考えたことがなかった。想像さえ。これまでの少年の生活にはなかったものだ。

疲れているのかもしれない、と思った。2週間の間で、とにかくいろいろなことがあったから。

実際、少年は疲れていた。疲れ過ぎていて、横になって思考と一緒に自分も溶けてしまえればいいのにと思った。
けれどベンチはひとりがけの小さなもので、横になることさえできない。

人形たちがちらちらと自分に視線を送ってくることには気づいていた。視線や向けられる感情には敏感だ。
こんな時間に外に出ている人間、つまり自分のことを気にかけているらしいとわかったけれど、わかったところで、どうすればいいのかは知らなかった。それは教えられたことがなかった。

少年にとってコミュニケーションは億劫以外の何物でもなくて、だからどうかこのまま話しかけられることなく過ごせればいいと願った。しかし淡く銀色に発光する人形が1体、少年のそばに近寄ってくる。

ポーン、と音が鳴った。
人形が声を発する前、必ず鳴る音だ。視力に不自由のある人でも、それで自分の相対しているものが人間ではないとわかるようになっている。

「あなたは人間ですか?」

これも定型だ。契約関係にない人形が人間に話しかけるときは、まずこの確認をすることになっている。
人間側が声や視線や仕草で質問への肯定を示せば、人形たちは目の前の人間に対し、より強固に基本的恭順を示さなければならなくなる。<安全><便利><長持ち>のために課されたルールの適用力が強くなる。
そういう風にできている。

穏やかな声だ。淡い光も表情もやわらかくて、そう造られたというせいだけでなく、目の前の人形が自分を傷つけることは絶対にないと少年にもわかった。
けれど人形の問いに答えるのは難しい、とも思った。

うまく答えられなくて、このまま答えずにいたら、飽きてどこかに行ってくれないだろうかとぼんやりと思った。
けれど、ポーン、と再び鳴って、再び問われた。

「あなたは人間ですか?」

逃げられないように思われて、少年はおそるおそる答えた。

「はい。僕は人間です」

人形が頷いた。

ポーン。「何かお困りですか? お手伝いいたしますか?」
「……」

そうだ自分は困っている、とても困っている、と思ったけれど、何に困っているのかはわからなかった。だから何をどう手伝ってもらえばいいのかもわからなくて、質問に答えられない。

ポーン。「そろそろ、みんなお家に帰る時間ですよ。おうちはこの近くですか?」
「遠くはないと思います。でも隣の街だと聞いています」
ポーン。「もしかして、このあたりにはあまり詳しくない? 最近引っ越してきたのですか?」
「……」

引越し。ではないと思う。家の人たちがいなくなって、それまでいた場所がいてはいけない場所になって、だから別の場所を与えられた。こういうのはなんというのだろう。ぐだぐだと考えるけれど、わからなくて答えられない。
少しの沈黙のあと、口を開いたのはやはり人形の方だった。

ポーン。「迷子になっちゃいましたか?」

迷子。そう言われたらそうなのかもしれないと感じたので、「はい」と答えてみた。
人形がやさしく微笑んだ。

ポーン。「それでは、目的地までご案内しましょうか」

目的地。
帰るべき家と言われてもしっくりこないけれど、たしかに、そこは今日行くべき目的地だった。
夜は人形たちの余暇活動の時間だ。昼間の労働から解放されてくつろぎ、ソフトの負荷を低減させるための時間。
見ず知らずの人形にそんな貴重な時間を潰させてしまってはならない。支払うべき対価もわからない。そう思い断ろうとしたけれど、今度も人形の方が先に口を開いた。

ポーン。「今日は、散歩を楽しむ予定でいました。一緒に歩ける方がいると私は嬉しく思います」

そうなのか。それならいいのかもしれない、と思い直した。

「では、すみませんがよろしくお願いします」
ポーン。「了解しました」

自然に手を差し出されて意味がわからなかったけれど、どうやら立ち上がるのを手伝ってくれようとしているらしい。人形とはそういうものなのだろうか。わからないけれど、そうすることが求められているのがわかったからその手をとった。ひやりと乾いていて心地いい。

ポーン。「私は*************と言います。あなたのお名前を聞いても大丈夫ですか?」

人形が型番を言ったのがわかったけれど、注意して聞いていなかったので覚えられなかった。

「カラス、と呼ばれていました」

それを名前と言っていいのか、少年にはわからなかった。すでに別の名前を与えられていることも知っていたけれど、それはまだ馴染みがなくてちゃんと覚えられていなかった。

ポーン。「夜色の鳥ですね。私は見たことがありませんが、あなたの髪と同じ色の。とても賢い鳥とききます。いつか本物を見てみたいと、思っていたことがありました」

この国の人間の多くは同じ髪色をしている。黒髪は少しも特別ではない。けれど言われて、少しだけ興味がわいた。自分の髪の色。カラスという鳥のこと。

「そうですね。僕もいつか見てみたいかもしれません」

人形は立ち上がったあとも、少年の手を離さなかった。ひやりとした心地よさが気に入ったので、少年も振りほどかなかった。
この人形とは緊張しないで話せるようだと、少年はやはりぼんやりと思った。

周囲の窓から漏れる明かり、等間隔で照らされる足元の明かり、人形たちが薄く発光しゆらめかせる明かりの中を歩くのは楽しかった。視力の弱い少年の世界はぼんやりとしていて、だからこそ牙を直視せずにすむ。
支給された荷物の中にはメガネもあった。視力を矯正する手術も受けられると言われたが、気が乗らなくて断ってしまっていた。手を引かれ歩きながら、怖かったのかもしれないと思った。メガネでさえ、まだ一度も満足につけて過ごせた試しがない。歩くことをしないでいいなら、輪郭を結ばない世界のありようは、少年にとっては最大限のやさしさだった。
(でも、ぼくは、いま、あるいている)
何にも縛られず、繋がれず、鍵をかけられてもいない、道を。
(そうだ、ぼくは……)
排出されてしまったのだ。あの家から。家の人たちから。だから歩かなければいけないのかもしれない。

行くべきらしい場所についたら、もう一度メガネをかけてみようと思った。すぐに頭が痛くなってしまったあれ。
この人形はきっと、このぼんやりとしたやさしい世界に連なるものだ。初めて「見よう」と思って見るものの姿がこの銀色の人形なら、それはすこし上等で、すこし大丈夫な感じがする。
それは支給された家に行くことよりも、もっと明確な到達点になり得る気がした。


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シリーズです。続きます。

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