教員歴6年目の世界教師デーに思うこと
母校で教員をやりたいという想いをもって、中3ごろから教員を志し、今国語科教員として働きはじめて6年目になった。
高校時代に母校で卒業研究の難しさにぶち当たり、探究というものの難しさを知った。
大学でも卒業研究の時期にテーマをどうするかに苦戦した。ゼミ発表で向けられた、普段は優しい指導教官の鋭い問いかけに困惑した。その問いを考え抜いた末に、難しい探究と向き合う国語科教育を考えたいと自覚した。
大学院でも引き続き国語科における探究というテーマで探究した。その探究は現在も続いている。いずれは自分の実践や考えをまとめて、世に問うことができるように考えている。
今年度からIB言語と文学の授業を担当するようになり、自分の授業のあり方についても考えるようになった。何によってどのように評価されるか、手引きによって示されている中で、それを意識しながらそれに終始しない学びをいかにデザインするかは悩ましい。
相手する「評価」が多様で曖昧なだけで、IB校以外の日本の教室においても同じ問題を抱えているのではないか、と最近は考えている。現実問題として、IBと日本のカリキュラム双方の授業を担当しており、授業の進め方は影響を受けているにしろ同じではない。
ただ、一般的に日本では1クラスあたりの生徒の数が多すぎて、IBのように生徒主体での授業をすることはかなり難しい。
そろそろ40人学級という高校における当たり前を見直し、半数程度にできないものか。
この当たり前を見直すうえで、少子化はチャンスであるが、それを上回るペースで教員が減っている。この現状に歯止めをかけるのが最優先であろう。現在「#このままでは学校がもたない」というハッシュタグでのTwitter投稿が5000を超えてトレンドになっている。
探究を充実させるのはゆとりだ、と考えている。
そもそも、ゆとりのない学校で生徒によるより良い探究が生まれるとは思えない。
最近学校に勤めていて、生徒にも教員にもゆとりがない、とよく思う。
国語科における探究を考えるうえで、この現状を現場レベルで少しでも変えていける教員になれればと思う。
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