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アライのスルー

先週日本語ツイッター上で考えさせられる議論があった。

ことの発端は、ある在米邦人男性のツイート。

彼は、日本の男性優位社会を認識し、憂いている。米国に暮らしていて、トランプが投票で落とされて行った民主主義の力を体感した。気になり、日本の投票率を調べた。女性の投票率が少ないと言う事を知った(そんな事はない、とのツッコミも入っていたけど便宜上そうだという事で話を進める)。

投票という行為で政治が変わることを実感した身として

「日本女性はもっと選挙に行くべき」

という旨のツイートをした。

「男性が変わるのを待ちますか?日本の男なんて変わらないです。女性が自分のために自分で動いてはどうでしょう?」

と。

これにものすごい反響。

「おっしゃる通り、女性ももっと政治に参加すべき」という男女もいた。しかし否定的な意見も多数あり、強烈な反発も呼んでいた。

「出たよ、もう男は黙ってろ」と言う女性が多くいた。この「男は黙ってろ」と言う女性達について考えた。


ツンツン差別

「女性が変わるべき」と言う男性は女性の受ける構造的差別を理解していない。

日本女性参政権が認められたのは1945年、76年も前だ。男性の目には「これで女性も政治に参加できるな!問題解決!」と見えているのかも知れない。

でも、法できっちり明記されていることだけが差別ではない。

女性は毎日「女性らしくおとなしく」「わきまえて」「まあまあ」「女ってすぐ怒る」「難しい事言わないでおっぱい見せとけ(松本人志)」と言う心ない差別を雨霰のように浴びている。「差別するな!」と声をあげれば「参政権あるだろ、差別なんてしてねーし。」と矮小化される。

女性が「わかんなーい、私馬鹿だしー」と振る舞っていた方がよっぽど得する社会というのもある。そんなつもりはなくても「男うけの良い所作」などが雑誌に取り上げられ(子供用の雑誌にも載っていて顎が外れる程驚いた)、「えー、わかんなーい、すごーい!」と言っておいた方が良さそうだ、と刷り込まれる。

女性はそういう日々を過ごしている訳で、物事を自分で考えて発言し、社会で成功していく事を奨励される男性とは同じ日本でありながら全く違う世界を生きている。

投票する人のエリアと不投票の人のエリアがあるとする。どちらのエリアもオープンで、投票エリアに厳然と壁があり「女禁制!」と言われている訳ではい。しかし、普通になんとなく歩いてるだけでも、ツンツンと少しずつ小突かれ、気づけば不投票エリアに入っている。そう言うイメージ。

その毎日の「ツンツン」を受けてない男性に「なんでそっちに行かないの?」とあっけらかんと尋ねられると、説明できないし、分かってもらえないし、暗澹とした気持ちになる。

故の「あー、こいつも結局分かってないし分かる気もない“男“だわ。差別層の男は黙ってろ!」との発言になる訳だ。


その一方で「女性の投票率が上がれば、それが社会の変化に繋がる。」と言う主張は全くもって正論であり、黙ってろと怒鳴られた男性は「自分だって男女差別は問題だと思っていてそれを変えたいと思っている。具体的な案を投げかけただけで、黙れとは何事だ。しかも俺の言っていることは正論なのに!」

と思うわけだ。


ポジショナリティ

ここで差別の当事者でない支援者(ally、日本語でアライと言う)の立ち位置(ポジショナリティ)と言う話になる。

米国の黒人差別問題でも支援者が「ああしたら?」「こうしたら?」と黒人の毎日の生活に蔓延る構造的差別を理解せず、自分が白人として見ている「差別を受けない世界」が中立で普遍と信じ込み色々解決策を提唱しては黒人の当事者から不信感を買ってしまう、と言う状況が見られる。

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ものすごくためになる連ツイを見つけたのでこちら


(ツイートの要約)
差別を受けている当事者はドーナツ型の島の内斜面にいる。それを支持する差別を受けていない人は外斜面にいる。内斜面にいる人はそこから抜けられない。外斜面にいる人は自分の意思で去る事ができる。そこがまず決定的に違う。

内斜面にいるものは外斜面にいるものに向かってお前は何者で、どんな立ち位置で誰に向かって言っているのか、と言うポジショナリティを問うことで外側=マジョリティー(先進国、男性、白人、健常者)からの介入に異議申し立てをできる。

マジョリティ側は自分の特権を認識せず、自分こそが中立で普遍的だと信じ込み支援や救済としてマイノリティに介入する。

対話の中で、このマジョリティ側の優位性を自覚させるためにポジショニングを問い、水面下にある不平等性を知らしめることは重要。
「女の声はずっと無視されて来た、女頑張れではなく、声を聞いてもらえる男が頑張れ。」
「女が文句言うとヒステリー、うるさい、って言われるんだから男が言え。」

しかし、これで外斜面にいる人が「敵と思われた」として「外海」に行ってしまえばもう対話も起こらない。外斜面にいる人は支援者ではあっても内側の人ではない。支援者ではあるけど当事者ではない、と言う微妙な立場にある。この「内・外」と「味方・敵」の二つの区分のズレが、一般に理解されていなくて、支援者も当事者も傷つく結果になることが多い。

支持者としてどのように接するか、についての規範・礼儀のようなものを設定することが必要。

本当の敵は差別をはびこらせたい権力層であり、それは無関心な傍観者と共に外海にいる。傍観者が黙って見ていた方が彼らにとって都合がいい。アライが踵を返して無関心の外海に行ってしまえば権力層の思うまま。支援者が無理ない形で支援を続けられることが必要でもある。

集団の力関係や構造的不均衡を知らしめる意味でマジョリティー属性(男、白人、、、)を語ることは問題ないが、対話の相手個人を属性に括って語ることは避けた方がいい。「女は、頑張れ」「男は、黙ってろ」。

見えない喧嘩を買う毎日

米国黒人差別の問題も、現在では「黒人頑張れ」と言う人はあまりいない。この白人至上主義の問題は黒人の問題ではなく、白人の問題なのだ、と言う認識がこの夏からの強烈な反差別運動で広がった。黒人活動家が口を揃えて「今までも、大きな反差別運動の波はあったが今回は違う。白人の参加者が多く、認識を変えている。」と言う。

差別の問題は、被差別者の問題ではなく、差別者の問題なのだ。

私は日本の女性差別問題を語るときに、志高い優しい女性が「男女一緒に社会を変えるんだから、男性に変われ変われと言うだけでなく、女性も変わりましょうよ」と言うのがはっきり言って嫌いだ。

女性は変わらなくていい。謝らなくていい。女性差別は女性が起こしてるんじゃない、と私は思う。

自分では差別せず(自分の意識内では)、女性差別社会も自分でも変えたいと思っている男性が、いきなり女性に「男は黙ってろ!」と言われたらそりゃびっくりするだろう。その気持ちも分かる。

だから私は自分ではこのような時にイラッときて「男は黙ってろ」とは一瞬思っても言わないし、1分もすれば「喋ってよし!」と思える(笑)。

しかし私は「男は黙ってろ!」と叫んでしまう女性達を「ダメだよ!そんなんじゃせっかく助けてくれる男性がそっぽを向いてしまうよ!」と諭すことは絶対にしない。そんな事絶対やってはいけない。

なぜなら、彼女達の攻撃性は彼女達が生来持っているものではなく、差別を受けて来たゆえの失望や落胆から起こっているからだ。その怒りを「まあまあ、抑えて抑えて」と言うのは、「森元首相の発言もさ、まあ、おじいちゃんだから、まあまあ抑えて抑えて」と言うのと程度は違えど一緒だ。

「なんで女って怒ってんの?」「なんでフェミっていつも喧嘩腰?」と言う時、その人は「女」や「フェミ」が立たされてきた状況を理解してない。被差別者にしか見えない景色があり、それは、一般からは見えない喧嘩を買わされる毎日なのだ。

「なんで投票しないの、分かんねーな。」とあぐらをかいて、被差別者にその説明を強いるのでなく、共感や想像力を働かせて、被差別者の状況に寄り添うように変わって欲しい。「男が変われ」と言う時、怒れる女性達はそう言う事を言っている。

なんで反差別してる?

じゃあ男性はどう変われば良いのか、と言う話になる。

まず、どうして自分が当事者でない反差別運動を支持するか、じっくり考えて見るといいかも知れない、と思う。

私は米国に住んでいて、この国の黒人差別問題について勉強している日本人だ。夫は黒人でもないし、だから子供に黒人の血も入っていない。

アライだ。

米国黒人差別問題にアライとして取り組むことの現実を、ポートランド在住の日本人の写真家の方がレポートしているこの記事が素晴らしい。


BLMの最前線に立ち、顔にゴム弾を受け(額が陥没しています)、それでもニュースなどの取材を嫌がった白人女性の話(白人だから注目される、と言うのはおかしい。黒人の当事者のストーリーをもっと語るべき)。

反黒人差別活動支援に尽力しコミュニティーからも尊敬されていたのに、暴徒に車を壊され「dirty n**ger!」と叫んだ白人男性の話。
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自分が支援しているはずの集団から批判や暴力に遭った時、「じゃあ止める!」となるかどうか(アライは当事者ではないので立ち去る事ができる)は、「支援する理由」によるのかと思う。

私もアライとして、なぜ自分が反差別主義を掲げるのか、考えてみる。多分3つの理由がある。

1。助けている自分に酔いたい。「すごいね!偉いね!」と周りに言われたい(virtue signalってやつ)。助けた人に感謝されて、自己満足度を上げたい。

2。差別社会を自分にも不利益な事だと認識している。(日本の女性差別で言うなら、「女らしく」なんてのを同時に「男らしく」をとり払うべきであり、それが自分に有益だと思える男性は多数いるだろう。

3。自分の損得とは離れた所にある倫理的な事。女性や黒人に起こっている事が「不正義」であるから。

アライは誰でもこの3種の動機をミックスして持っているんじゃないかと思う。人それぞれ割合が違うと思うけど。

私の中にも理由1はある。認めたくはないが、絶対にある。これだって立派な理由だと思う。私だって普通の人間だ。自己満足を否定する人もいるかも知れないが、世の中、自己満足以外の理由なんてあるのか?とも思う。

その上で、自分の理由に2や3もあると認識して尚、被差別者に罵られた時に「もうダメ、帰ろう」と思う支援者のそれは「感情の」反応。「お気持ち」ってやつだ。差別社会を正す、と言うゴールがあれば、被差別者に罵られてもそこに留まるべきなのに、辛いから去る。お気持ちが耐えられないから。

罵られるどころか、上記の白人男性のように実際に暴力の対象になったら、自分だったらどうするだろう。

お気持ちが耐えられないかも知れない。

だから、それは、それで、悲しい事だけど、しょうがない。お気持ちって大事なのだ。

支援者の「じゃーこーすればー?」という能天気な提案に「(ほら来たやっぱり分かってない)男は黙ってろ!」と叫んでしまう当事者のそれも、「お気持ち」。冷静に「あー、それね、いけると思うでしょ?でも、XXで無理なんだよねー。」と言えば穏便に済むのに、それができない。もしかしてその女性は何度も何度も同じことを男性に提案されて来たのかも知れない。

だから、それは、それで、悲しい事だけど、しょうがない。お気持ちって大事なのだ。

一連の男女の論議を見ていて、ツイッターの知り合いの若い日本人男性の方が「自分で勝手に共闘しているつもりだったけど、黙ってろ、って言われるんじゃ、僕は口をつぐんでもう意見を言わない方が良さそうです。男でも女でも発言できる場がリベラルと思っていたのに。」と言っていた。私がベラベラと上記のようなことを語ってもその気持ちは変わらないようだった。

それは、悲しい事だけど、彼の感情なのだからしょうがないと思う。


時が経って彼の心の傷が癒えて「やっぱりこう言う社会はおかしいよ!変えないと!」と思ってくれることを願っている。

反差別運動の流れ弾


ポートランドのようなプログレッシブな街の企業は、反差別の機構が人事に整っている所が多い。夫の会社も、女性差別や人種差別に対応すべく色々な取り組みをしている。その「反差別運動の流れ弾」にあたる人もいる。夫がそうだった。

何度チャンスをあげても成果を上げられない女性社員を解雇した。夫の業界はプロジェクトごとに雇用が起こり、人の移動が激しい。彼女の解雇は会社のノームからも順当なものだったが、彼女は「女性だからと差別にあって解雇された。訴える。」と言うのだった。

その様なクレームがあれば人事は全力で彼女の話を聞き、徹底的に調べる。夫や夫のチームの同僚、部下、ボス、に調査がなされ解雇の正当性に関して細かく吟味された。結局会社側は、夫を支持(彼女は前の会社でも同じことをしていた)、「訴えるならどうぞ」と言う態度に出てくれた。しかしその期間相当怖い思いをした。夫は私なんかよりよっぽどフェミニストなのにそんな目にあった。

「女権のための運動とか、嫌になっちゃった?」と聞いたら「でも、こう言うシステムがあることで拾える本当の女性差別のケースが腐る程あるからね。しょうがない。元々女性差別がなければあんな人だって出ない訳で。」と言った。


反差別運動に呼応した社会の成り立ちの変化で出るこう言う流れ弾ケースを大きく取り上げて「ほら!こう言う風に痛い目にあう人も出る!だから変えない方がいい!」と言う議論が必ず保守から出る。しかしこの流れ弾ケースの「原因」は反差別運動でも、被差別者でもなく、一番最初の差別社会だ。

前述の連ツイの中にこう言う言及があった。

「人はみな、多かれ少なかれ、傷や秘密を抱え、みえない重荷を背負い、他者や時には自己に対してもパッシングをしながら生きている。善意であっても傷口に触れられるのは痛い。支援者は反撃したり、立ち止まったりせず、ただそばに居続けて、感情の強度を感じ取ればよいと思う。」

言うは易し行うは難しとはこの事だが、アライとして、当事者の罵りで傷つく自分の心くらいだったら、下の画像の対応で「スルー」するのを心がけよう。

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