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西麻布にあった豪華絢爛•伝説のニューハーフ・ショー・クラブ「プティ・シャトー」を知る人は今は、もう、いない‼️

「バブル経済時代」全盛期に知る人ぞ知る豪華絢爛のショーを毎夜、繰り広げたニューハーフ・ショー・クラブ「プティ・シャトー」を知る人は今、殆どいません。

びっくりした事にGoogleで検索しても詳細は出て来ません。

「バブル経済時代」にはニュー・ハーフ・.ショー・クラブで世界でも有数な超高級クラブでした。

開店は真夜中12時過ぎですが、その時間には、まだ誰もお客様がいないことが多かったです。
終わるのは大体、明け方です。最後まで滞在して外に出ると明るくなっていることもありました。

兎に角、会計は銀座のクラブより高かったです。

ヘネシーVSOPを入れて2人で100,000円越えでした。

僕は同じ寅年で一回り年上のSママに可愛がられたので会計は学割にしてもらっていましたが、それでも高かった記憶があります。

Sママには、いつも「菅ちゃんは赤ちゃんみたいだから」と言われ可愛がってもらいました。

ショーのステージは東京でも1番大きかったと思います。
そこで繰り広げられるショーは圧巻でした。
衣装も豪華でショーの質も素晴らしく「バブル経済時代」にはショークラブは沢山ありましたが「プティ・シャトー」は断トツでした。

僕は大体、銀座で飲んでから行くので、1時過ぎに行くことが多かったです。

ショーはお客様で一杯になる頃から1回目が始まります。

場所は西麻布の有名なラーメン屋「赤のれん」から六本木方面に上がり1つめの信号の近くでした。道の反対側には落語家の経営する全国ラーメン党「木久蔵ラーメン」がありました。
朝迄、営業していたので、酔っ払って、よく食べに行きましたが、そのラーメン屋も今はありません。

「プティ・シャトー」のお客様は業界の方が多かったです。
芸能人、作詞家、歌手、医者、スポーツ選手、政治家、実業家、作家などマスコミに登場する方々も多く、今で言う反社会勢力の方も結構、多かったです。
俗に言う一般のお客様は全くいませんでした。

何回か通っていると顔見知りになりますが、ここは倒錯の世界なので誰に会ったとかは
一切、口外しないのが暗黙の了解になっていました。

ショーが始まると躍り子達のパフォーマンスのレベルの高さと豪華な衣装に圧倒され、
あっと言う間に時間が過ぎ去り、ショーが終わると踊り子と出演者の紹介が始まりますが、これが凄い。

他のショークラブと比べてもチップの額が違いました。
万札が飛び交い躍り子のT-バックに万札をねじ込むお客様もいて「バブル経済時代」の象徴的な光景でした。
お客様の熱気で狂宴と言う言葉がピッタリでした。

紹介が終わると彼女達はお客様の席につくわけですが、大体、馴染みのお客様の席に行きます。
指名も出来ますが、売れっ子になるとなかなか席に来てくれません。

全てSママが仕切っているのでママに頼まないと売れっ子は席に来ないことも多かったです。

チップを沢山あげれば躍り子は席に挨拶に来るので、それで高額なチップをあげるお客様も出て来ます。
一見さんには新人とか人気のない子がつくことも度々ありました。

ショーが終わると帰るお客様も多いですが、終わっても帰らず飲むお客様は彼女達を好きな方が多いですね。

夜中にここで交わす会話は昼間の会話とは全く違います。
彼女達と盛り上がっていると、直ぐ次のショータイムの時間が来てしまいます。

周りを見回すと客席が、また満席に近くなっています、
そのうち「躍り子さんはショーが始まるのでご用意お願いします」と言うアナウンスが流れると彼女達は席を離れていきます。

酔った勢いで長いすると同じショーを2度観てしまうこともあります。
お財布は軽くなってしまいますが。

ここは倒錯の世界と言う言葉がピッタリの世界です。

ある夜、「プティ・シャトー」で飲んでいるとSママが「フィリピンから可愛い子が入ったから菅ちゃん、面倒みてあげて」と言われ、Sを紹介されました。
小柄で可愛い子で、まだ日本語も完全ではなく英語の会話になりました。

Sママに「日曜日に食事に連れて行ってあげて」と言われ六本木で食事をして、「プティ・シャトー」のホステス達が集まるバーに行くと先輩のお歴々から、菅さんは何故、当時まだ珍かしかったフィリピンから来た子と食事なんかするのかという視線を浴びせかけられました。

その後「プティ・シャトー」に行くとSは席に来る様になりましたが、後に彼女が超人気のホステスになるとは、まだ想像も出来ませんでした。

彼女はその後、性転換手術を受け、完全な女性になりました。

まだ当時はフィリピン・パブが流行って、沢山フィリピンからホステスが日本に来ていましたが、ニューハーフ・クラブでは、Sが初めての存在でした。

彼女は最初の頃は可愛いだけで洗練されていませんでしたが、瞬く間に化粧も変わり洋服のセンスもよくなり「プティ・シャトー」でも頭角をあらわしていきました。

しばらくして彼女はフィリピンに大きな家を建てフィリピンでも成功したニューハーフとして有名になりました。
その為か大勢のニューハーフが日本に来るようになりました。
彼女は日本での草分けになったわけです。
一種のサクセスストーリーですね。

ここに勤めることはニューハーフの子達にとって夢の1つでした。
でも大先輩とか派閥があり、どろどろとした世界でもありました。
今だから話せますが、ここではお金も重要ですが彼女達とお客様の欲望も絡み合い凄じい物語が毎夜のように繰り広げられます。
内情が分かれば分かるほど彼女達の悩み苦しみが理解できました。

男女の恋愛よりも濃いかもわかりません。

当時は今のようにまだニューハーフの彼女達やゲイの人達がテレビをつければ誰かしら出演していて、世の中の表舞台で認められているのと違って、日陰の存在でした。

ここで働いている彼女達は男の人が好きで、自分が女性になりたいと言うより、自分は女性なんだと思っています。

日本では性転換手術をするのは非常にハードルが高く何回もカウンセリングを受け、そこで性同一性障害と認められないと手術は受けられませんし、費用も非常に高額になります。
当時は今より、いろいろな意味でハードルが高い為、費用も比較的安くハードルが低いフィリピンやタイで性転換手術を受ける人が多かったです。

手術後の痛みは想像を絶するものらしく、命の危険もある手術を決意した彼女達の気持ちを思うと涙が出て来そうになります。
また術後は女性ホルモンを大量に投与し続け、アフターケアも大変です。
寿命を縮めながらも、完全な女性になりたいのです。

先駆者としてモロッコで手術を受けたカルーセル麻紀が有名ですね。

ですから彼女達の恋愛も命懸けと言ってもいいでしょう。

それらを考えると華やかな「プティ・シャトー」のショーや綺麗に着飾った彼女達の裏には想像を絶する悲しみや、はかなさを垣間見ることができ、何かやるせない気持ちになってしまう時があります。

それにお金が絡んできたりすることもあります。

お客様の取り合いなども、たまに起こります。

正に凄じい人生模様が繰り広げられるのが、「プティ・シャトー」なのです。

一度、長唄の師匠と歌舞伎役者のDとKと六本木で食事をして、何か面白いお店に行きたいと言うので最後に「プティ・シャトー」に行ったことがありました。

まあ、皆、はしゃいだ事はしゃいだ事、その日だけはニューハーフ達も派閥関係なしに僕達の席につきました。
DもKも豪華なショーを観て大感激で、大はしゃぎでした。

明け方近くまで飲み、お店の外に出ると、もう夜が明けていました。
外までニューハーフ達はお見送りに出て来て、インスタント・カメラで写真を沢山撮りましたが、今のようにスマホがない時代だったので、かえって良かったかもしれません。

今だったら、直ぐ写真がネット上に広がり大変だったかも知れませんね。

また、こんな事もありました。
取り引き先の会長で某銀行の頭取の弟さんと「プティ・シャトー」に行った時、彼は1人の美形の子Mが気に入ってしまい話の具合で後日、彼女の家で彼女が食事を作ってくれることになってしまいました。

後日、六本木の彼女のマンションを2人で尋ねました。
彼女は甲斐甲斐しく食事を用意してくれ料理の出来も素晴らしいものでした。

当然その日は彼女と同伴でお店に行くわけですが、お店に入る時間は1時なので3人で随分、飲んでしまいました。

彼女は会長にブランド物の真紅のハイヒールをおねだりして買ってもらう約束を取り付けました。

今でもそのハイヒールの赤は鮮明に覚えています。

彼女は綺麗な子でしたが、おねだり上手でニューハーフの中では、有名な子だと後でわかりました。

Sママの性格を表すエピソードがありました。

「プティ・シャトー」の何周年かは忘れましたが周年パーティーが紀尾井町のホテル・ニューオータニのすぐ近くにあったショー・レストランクラブ「クリスタルルーム」で開催された事がありました。

Sママに「菅ちゃんの席用意するから来てね」と言われたので、仲のいい銀座のホステスEと出席した時の事です。

盛大に催され大勢のお客様がお見えになりました。

EとSママに指定された席で飲んでいると目つきの鋭い一団が入ってきて、僕の席に来て、席を会長に譲るように言われました。

僕はびっくりしてEと目を合わせ、どうしたものかと思ったのですが、思い切って「Sママにこの席に座るように言われたので、席を替わるにしても、Sママに聞いてからにしてもらえますか」と恐る恐る若い衆に答えました。

若い衆に「誰に向かって口きいているんだよー」と大声で叫ばれた時、Sママが飛んで来て、その集団のボスらしき人に「ここは菅ちゃんの席で決まっているので、別の席を用意しているので、そちらにご案内します」と毅然とした態度て言ってくれました。

ボスは「わかった」と一言いって、Sママの指定した席に案内されました。

僕達はSママに「ママ、かっこいいね」と言ってグラスを傾けました。
一瞬、Sママが男らしいなと思ってしまいました。

少したつと若い衆がシャンパンのボトルを持って来て「先程は失礼しました。これは会長からです」と言い立ち去ったので、後で会長の席にお礼をいいに行きました。

会長は「あんたも度胸があるね」と言われ、お近づきの乾杯をして席に戻りました。

Sママは普段は女らしいですが、言うべき事は、はっきり言う人だなと思いました。

「プティ・シャトー」の反対側にある中国飯店のビルの地下には「マンディ」という朝方まで営業していたレストラン・クラブがありました。

ここはマンディさんと呼ばれる着流しのママがオーナーで食事も美味しいことで有名な芸能人御用達のお店でした。

お店の中には大きな円形のカウンターがあり、いつも朝までお客様で一杯でした。

ここは女装している人は居なく、マンディとチイママとスタッフが切り盛りするお店で
お客様は皆マンディ・ママとの会話を楽しみに来るお店でした。

道を隔ててお店の性格が違う人気店が西麻布にはあったのです。

「バブル経済時代」は朝まで営業しているお店も多く、六本木だけでもショーをやっているニューハーフ・クラブやいわゆるゲイバーが数軒あり、毎夜、お客様で賑わっていました。

当時は若い人達も女の子を連れて、ニューハーフ・ショーを見に行くのが流行っていました。
ショーをやっているお店は連日、大盛況でした。

男性も女性のお客様もニューハーフの子達との少しHな会話を楽しみ、ショーを見て遅くまで飲み明かすことが多かったです。

バブル経済が終焉すると、遅くまで飲む人は急激に減り、お金も使う人が減ってきてしまいました。

それに伴ってニューハーフ・ショークラブも段々減っていってしまいました。

赤坂や六本木にあったお店は新宿2丁目にあるゲイバーとは性格が異なっていました。

ストレイトと呼ばれる一般のお客様が対象のお店はバブルが弾けると同時に衰退していったのです。

「プティ・シャトー」は他店とは客層は違っていましたが高額な会計や万札のチップを出すことがバブル崩壊で、お客様にその余裕がなくなったのだと思います。

今は六本木でショーをやっているお店は殆どなくなってしまいました。

また日本には歴史的にみても戦国時代の武将がお小姓と呼ばれる美形の男の子をそばに置き、身の回りの世話や夜のお相手をさせたり、江戸時代にも陰間茶屋と呼ばれる男娼のお店があったりして歴史の影の部分に衆道という男色の世界が存在しました。

現代においては影の世界ではなくなりテレビやマスコミに堂々とカミングアウトして表舞台で活躍する人達が増えてきました。

またLGBTなどの権利を保護する環境が整ってきて、法的にも権利が主張できるようになりました。

その事もニューハーフショー・クラブが減ってきた理由の一つかもしれません。

僕もこの流れは良い方向に向かってきるのだと思います。

もう「プティ・シャトー」のような豪華絢爛の高級ショークラブは出現しないかもしれませんが、何か寂しいような気持ちになることがあります。

先日たまたま「プティ・シャトー」があった場所のすぐ近くの喫茶店に偶然入りました。
妙齢のご夫婦がやっている今時、珍しい喫煙できる喫茶店でした。

古くから営業しているとの事なのでご主人に「昔この近くに「プティ・シャトー」があったの覚えていますか?」と聞いてみると、ご主人はSママやホステス達が、よくコーヒーを飲みに来ていたと話てくれました。

脳裏にSママや豪華絢爛のショーや躍り子達の顔が走馬灯のように浮かんできました。



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