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ネコとの年月が私の歴史 (2)


Chapter 2
ネコ#2 : アンヘルとの短かすぎた日々

「そんな名前つけるからだよ。」
と兄は言った。昔から口の悪い人だが、悔しいことに的を得ている場合もある。

ニューヨークから日本へピートを連れて帰り、都内のマンションに落ち着いた頃だ。フルタイムで働いていたため、一日中彼をアパートに閉じ込めておくのことの罪悪感から、遊び相手としてネコの弟をもらうことを決めた。

産まれて行き場のない子猫を保護している獣医がいると知人がいうので、その横浜の獣医を尋ねてみた。結果としてオレンジのタビー(茶トラ)の生後1か月ほどの子猫をもらってきたのだが、その場所は実に酷い環境だった。「獣医」と聞いてなんとなく安心してしまったが、地下室に設置されたネコのケージが置かれている部屋は悪臭を放ち、ケージに所狭しと入れられていた乳幼児の子猫達はさしずめ鳥かごの中で売られている鳥だった。その後、幾つかの動物シェルターでボランティアをしたが、200匹のネコを保護していたシェルターでさえ、あんな悪臭は放っていなかった。保護はされたかもしれないが、ケアはされていたとは言えない。ただこれは後にあちこちで経験した後でわかったことで、その時はそんなものかくらいに考えていた。

初めて家族にアディションが加わったことに、ピートは最初酷くショックを受けてしまった。当時ピートは2歳ほどで、一人っ子の生活を満喫していた。それが突然小さなネコがやってきて、なんの遠慮もなくスペースを使い始めた。ピートのいじけ振りは痛々しいほどだった。一番奥の部屋の一番遠くの隅にうずくまってしまい、動かない。新しいネコを受け入れるためにというアドバイス通りにあれこれやったつもりだが、ピートはできるものなら家出したかったかもしれない。こちらの胸も痛んだ。

幸いながら最初の試練の一週間をクリアすると、その後はみるみる快方に向かった。アンヘルがピートの後をくっついて離れず、完全なコピーキャットとなり、ピートもそれを受け入れたのだ。ネコはもっと意思があるものと思っていたが、アンヘルに至っては、何もかもピートの真似をした。ピートが顔を洗えば自分も、足で頭をかけば自分も(おそらくかゆくなくても?)、伸びをすれば自分も、昼寝をすれば必ず真隣にくっついて。行く所もやることも全てコピー。2匹はまるで実の兄弟かのように見え、お互いに最高の遊び相手となっていった。なんて平和な日々だったろう。驚きが絶えず笑いが絶えず、当時ろくなカメラも持っておらず人にお見せできるような写真は殆どないのだが、その幸せな日々は半年ほど続いた。

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アンヘルは我が家に来てからひと月の間、毎日便が緩かった。が、子猫はこんなものかなと、当時はそれほど深く考えなかった。様子がおかしいと思い始めたのは、妙な歩き方に気づいた時だった。まっすぐ歩かずに斜め前に向かって歩く感じだった。足を怪我しているようでもなかったし、それ以外は全く元気で、子猫がすることを家の中で普通にやっていた。カーテンをよじ登り、カーテンレールの上で新体操をしたり、いたってアクティブ。

近所の獣医へ連れて行った日のショックは忘れられない。ただしその獣医は、その後十数人の獣医と関わることになったが、最も素晴らしい獣医として今日まで記憶に残っている。名前を忘れてしまったが、世田谷の三軒茶屋の近くにあったと思う。獣医は私の話を聞き、アンヘルの歩き方を見て、問診触診などをした後で注意深く、
「脳に障害があると思われます。」
と言った。まさかの診断だった。まだ一歳にも達していないのに。

長い話を短くすると、検査の結果はFIPという病気だとわかった。担当の獣医は、先天性か、保護されている間に他の子猫からうつった可能性もあると言った。私はあの地下の劣悪な環境をすぐに思い出し、納得するのに時間はかからなかった。可愛そうに何匹の子猫が同じ運命に遭っただろう。仮にも獣医の監察の元でだ。どういうつもりだったか憶えていないが、私は横浜の獣医に電話でこのことを知らせた。すると彼女は私がワクチンを打たなかったから病気になったのだ、と返してきた。私は獣医の所から来たので、ワクチンはもう打たれていると思っていたのだ。ピートの時もそうだったので。その頃はまだ無知無教養の飼い主だった。でもこのように飼い主の落ち度で、子供のように大事にしているネコや犬が病気になった、と医師の権限を振るい決めつける獣医にはその後にも何人か出会った。FIPのワクチンは今でこそあるが、それが開発されたのはアンヘルが亡くなって10年以上も後のことだ。その時には開発されていないFIPのワクチンを、私が怠慢で打たせなかったために不治の病気になったと、その獣医は言うわけだ。

今では知らないが、当時FIPは治療法はなく、脳障害を伴い神経がだんだんとやられていく病気だった。時代は抗生物質やステロイドが流行り始めていた頃だった。アンヘルも様々な薬を言われるまま飲まされた。どうせ治らなかったのに。それでも少しでも寿命が延びたかもしれないし、症状は緩和したかもしれない。定期的に獣医へ通い、病気の進行を遅らせ、症状を緩和するサポートケアだったが、感謝している。歩行やジャンプは難しくなり、後には視力を失った。部屋のあちこちに頭をぶつけながら歩く子猫を看病した。やがて好物の缶詰も食べられなくなった。そしてここから先は書いてもあまり意味がない。。酷い環境で「保護」されて、産まれて間もなく運命を定められた。一歳半とあまりにも短く散った生涯だったが、最初の数か月ピートのコピーキャットとして過ごした日々は、彼も幸せだったはずだし、私達は悲しみ以上に、計り知れない幸せとめぐり合わせを与えられた。

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もしもサポートを戴いた際は、4匹のネコのゴハンやネコ砂などに使わせて頂きます。 心から、ありがとうございます