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ケモノ

(1)


人が人になる瞬間というものを覚えているだろうか。

物心がつく、という言葉で解釈してもらってもかまわないし、一皮剥けるなんてのは言い得て妙すぎて寒気がするくらいだから、かなり直感的だ。
過去をさかのぼって、感情をともなう強い記憶をさがしてみよう。たいていの人は3~5歳までで、思い出せる出来事自体が打ち止めになるのではないかと思う。
それはまだあなたが獣だったから。

言葉を扱えるようになってくると、ようやく周りはあなたに人としての教育をはじめとしたコミュニケーションをとり始めてくるから、それにしたがって経験の数、記憶の種類も増えてくるだろう。
おかあさんにおこられた、おじいちゃんにプレゼントをもらった、くすりがにがかった、まいごでさびしかった、いぬにほえられた、ともだちができた、けんかしてかなしい。
これらの経験は、あなたそのものに少しずつ傷をつけていき、あるいは硬化させていく。世界には獣という表皮を取り去るための、人社会に順応していくプロセスを強制的に踏まされる地盤が整っているから、あなたはただ歩いていけばいい。
それは走ったって、後ろに進んだっておなじこと。

さて、もう少し時代を進めてみよう。
だんだんと経験を積んでいくと、どういう行動や環境があなたの見栄えを損なうのか、あるいは他人を汚しうるのかというノウハウを得て、それらを実践し始めてきたのではないだろうか。
人は思春期という名前をつけて呼んでいる。
それは降り積もった雪が融けて、覆われていた大地の本当の姿を見る、春を思わせるから。
好き、嫌い、負けたくない、同じだと思われたくない、パパに怒られた、あの家はお金がある、猫はかわいい、うまくいって楽しい、食べたい、触れてみたい。
どうしてそう思うのだろう。

あなたも、あなたも。まだ獣だ。
だけど自分を覆う表皮の傷の場所は本能的に知っていて、ほかの誰かも同じだと気付きはじめる。そうして闇雲にがむしゃらに歩き続けていく。ときには自分を守るために攻撃したり、そうされたりする。
そうしてある日、それがずるりと剥がれる瞬間が訪れる。
肉がむき出しになり、どんな刺激も生命を脅かすほどの苛烈さを帯びているように感じ、怯える日々を過ごすことになる。
そこで自分の真の姿を知るのだ。 醜く愚かなその姿を。
なにもかもが優しくふわふわとしていた世界だと思い込んでいたら、それは自分の毛皮が知らずのうちに受け止めていて、傷ついてくれていたのだと気付いて愕然とする。
そして絶望だ。 こんな姿では生きていけない。

しかし、しばらくすれば次第に、ほんの薄皮ではあるけれどもきれいな肌ができてきて、外界に待ち受ける脅威を知りながらも巣立たねばならなくなる。
あなたは毛皮を失った。けれども、ありのままの姿をした仲間が大勢いて、なんとか社会を形成しながら生きているという知識を手に入れ、生きていく。

人が人になる瞬間。
それはあまりにもドラマチックで、グロテスクな。
ものではなかっただろうか?

(2)

そして、人になるとき深手を負ってしまったなら、毛皮を着たままのケモノからは逃げなくてはならない。


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