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ふざけたオセロ

(1)


ときどき、人類がつけてきた足跡の長さに絶望する。

たとえば。
音楽の世界にはコード進行という要素がある。 どういう順番で音を鳴らしていけば、音の並びを曲たらしめられるかという音楽理論のひとつ。 それに基づけばすべてのコード進行はもうやりつくされているという。 どんなに複雑だろうが、意味不明だろうが、分析していけばどこかで既存のものと一致するのだと。
これって商業音楽で売れたい人にとってすさまじい絶望なのではないかと思う。 すでに誰かが通ってきた道を歩いているだけだという前提を、みんな幽霊かのように無視してビートを刻み続けている世界の中に、もちろんたたずんでいる自分の姿がある。 個性とか自己表現とかクリエイティブとか、そんなものを追いかけるために選んだ、いや選ばれし道だったはずのものがはらんでいるどうしようもない真実。 人はいずれ死ぬ、ということよりももっとリアルな終焉。

あまたの人間が今日まで歴史を作ってきて、わたしはその中にいる。
食事をし、働き、眠り、出会い、争い、喜び、泣く。
時代は変わっているようにみえて、人間のやることなど変わっていやしない。 ただ、思惑の波の中で揺らぐことが出来る者とそうでない者が、遺伝子の配分によって右往左往しているだけで。
誰かが通ってきた道なんだ。 限られた音階の組み合わせが違うだけの楽譜をなぞっているだけ。 それを本能に刻むわけにはいかないから、人は歴史に学ぶ。 歴史が教えてくれるのは、人は生きるために死に、死ぬために生きるということでしかないのに。

まったくふざけたオセロだ。
けれどその事実を直視しながら、あるいはまったく無視しながら。
新たな足跡をつけ続けていく者たち。
希望に満ちたその目こそが、わたしにとっては絶望なのだ。
どこまでいっても単なる足跡の連続でしかないものに、意味を見出してしまっていて、その方向が真反対であるなんて。

けれどまた、花に水をやるために。

(2)

円周率が生み出す超越数だって、たった10個の数字を組み合わせているだけのガラクタだって知っているけど、それが示す終わらないという虚構じみた真実の織りなす矛盾に、人は憑りつかれている。
それは自然なことなのかもしれない。

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