偶然

ほんの些細な偶然の引き寄せ方を学べなかった人々。

不器用だとか近寄りがたいとか何を考えているのかわからないと評されてしまうような、そんな人々。
それは例えば、デパートのポイント3倍デーだと気が付かずに、混雑に巻き込まれ自分の時間を失う人。
雨が降る前日は寝つきが悪い、というパターンを読み切れずに寝不足を繰り返す人。
声の大きさと周波数が絶望的に噛み合っていないせいで、いつも別の誰かの意見が優先されてしまう人。
茶が似合うはずなのにいつも金に髪を染めている人。

センス、なんて言葉で片づけてしまえばそれまでで。
運がない、なんてのはあまりに薄情で。
どこかズレている、と言い放てば思考放棄。

明確なラインがないにせよ必ず踏めるはずの正解を、どうしても踏めない。
あるいはグレーぎりぎりのタブーに足跡をつけ続けてしまう。
いつからそうだったのだろうかと、さかのぼったってわからなかった。
人生の選択肢を逆順になぞっていけば、失敗ばかりを選んでいるのなんて誰でも当たり前のことだろうとは思う。
しかしそれがどこまでも続いているとなると、少し話が違ってくるなあ、と他人事のように結論付けるほかなくなってしまうもので。

正解だの不正解だので答えを出し続けた先になにが待ち受けているのかというと、そこには正味なにもないのであるし、強いて強いていえば空虚そのものががっぽりと穴を空けて待ち構えている。
ただただ人々にはそれぞれの歴史があって、その連続の上に立っているだけなのが紛れもない真実というか事実でしかない。
だからこそ選択した、どこの、何が、どう今の自分たらしめているのか、というのは絶好調あるいは絶不調の波にもまれたとき、あらためて気にかかってしまう事柄のひとつではないかと思う。

そんなとき人は、世間の基準を今いちど精査し物差しが如くあてがってみたり、生まれついた星のもとを検めるべく占ってみたり、かの偉人たちが残す言葉の端々に同じ足跡を見つけたりて心揺らされたりする。
しかしそれが示すところを、しょせん生まれと育ちだとかバーナム効果というものあってだなとか同じアディダスの25.5を履いて居れば足跡も同じになろうとか言い始めてしまったらそれは絶不調であるか性根が腐っている確固たる証拠である。 これは非常によろしくない。

通常われわれが生きる原動力とする第一にくるものは幸せという概念であって、どんなくだらないことの中にも、それを見出して笑顔を作れる者がしぶとく生き残るというのは世の常、セオリーというものではないか。 つまりは、人間の精神構造に沿って、本来くだらないものに一流の味付けを施し尊厳を保ちつつ咀嚼することのできる常識だの占術だの名言だのといったものをはじめとする概念に幸せを見出せないとなると、もはやそれは死人と大差ないのではないかとすら感じる。

人類は進歩しているようで大掛かりなタイムループを繰り返している。
細かな偶然を拾い上げ続けた者たちが、そうとは知る由もなく生き運命や必然や努力を語り、ひどければそれが間違いだったということにすら気が付かずに死んでゆく。
命のリレーなどという行いが、ゴールはあれど周回するトラックフィールドの上に成り立つことなどには目もくれずに生きている。
誰もがたどった間違いを、大勢がまた繰り返して、歴史のページそのものになり果てるのをただ黙って見つめていることしかできないのだ。

ああ、ほんの些細な偶然の引き寄せ方を学べなかった人々。
わたしが代表するわけではないけれど、生まれた意味を探し当ててください。

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